近代化産業遺産とは

 地域において、先人の歩みを知ることは、地域づくりを進めるうえで極めて重要です。なかでも、幕末から昭和初期にかけての産業近代化の過程は今日の「モノづくり大国・日本」の礎として、極めて大きな意義を持っています。
 経済産業省は、わが国の産業近代化の過程を物語る存在として継承されている数多くの建造物、機械、文書などの「近代化産業遺産」を33のストーリーに取りまとめ、平成19年(2007年)11月30日に建築物など575件を近代化産業遺産に認定しました。
 明延鉱山は生野鉱山と共に「我が国鉱業近代化のモデルとなった生野鉱山などにおける鉱業の歩みを物語る近代化産業遺産群」として、「明延鉱山探検坑道(旧世谷通洞坑)」、「明神電車と蓄電池機関車」、「明盛共同浴場・第一浴場」の3件が近代化産業遺産に認定されました。

明延鉱山探検坑道(旧世谷通洞坑)
明延鉱山の鉱床形式は脈型で鉱脈は130条板状ありました。その鉱脈に沿って、多くの坑道が掘られ、閉山までの坑道総延長は約550q、平面的な広がりは約5?、垂直距離約1q、海面下138mまで掘り下げられました。
この探検坑道は1989年(平成元年)、旧世谷通洞坑の一部を明延鉱業株式会社(当時)が青少年の鉱山学習施設として整備し、現在、養父市が管理をしています。坑道の総延長は650m、坑内には閉山まで使用していた大寿立坑跡、車両系鉱山機械(ダンプトラック、ロードホールダンプ、タイヤローダ、バケットローダー)、削岩機、2t蓄電池機関車、1t鉱車、などを多数展示しています。施設の見学は予約が必要です。有料。
○問い合わせ・予約   養父市立あけのべ自然学校TEL079-668-0258

明神電車と蓄電池機関車
鉱山で産出された鉱石は牛車や馬車、索道で精錬所に運ばれていましたが、鉱山の近代化と共に1929年(昭和4年)明延神子畑間の隧道が完成し、鉄道での輸送が開始されました。
明延粗砕場と神子畑選鉱場の約6q間には、鉱石輸送電車と客車が定時運行し、鉱石の輸送は1日10回、30両編成の鉱車で鉱石を運んでいました。客車は運賃が1円であったことから「一円電車」の愛称で呼ばれ、鉱山従業員及び家族の通勤、通学、買い物の足として利用されていました。閉山時には架線式機関車10台、蓄電池機関車80台が稼働しており、軌間は762o500oの2種類でした。
明延で保存している車両は、10t架線式電機機関車、2t蓄電池機関車、3t蓄電池機関車、5tグランビー鉱車、1t鉱車、くろがね号、しろがね号、あかがね号、パトロール車です。展示場所は、明延振興館、明延鉱山学習館、探検坑道内です。
○問い合わせ  養父市大屋地域局TEL079-669-0120

明盛共同浴場「第一浴場」建屋
鉱山が最盛期の昭和30年代頃は明延の人口も約4千人となりました。この頃、明延には会社が設置した共同浴場が6ヶ所ありました。鉱山労働者や家族の憩いの場でした。
現存しているのは、この明盛共同浴場「第一浴場」だけです。
昭和9年(1934年)建築。木造平屋建亜鉛波鉄板葺。床面積152u。個人所有。非公開。
○問い合わせ 養父市立あけのべ自然学校TEL079-668-0258

明延鉱山
 明延鉱山は大同年間(806〜810年)に開山していたとされ、かの奈良・東大寺の大仏鋳造にも明延鉱山産出の銅が献上されたといういい伝えもあります。明治5年(1872年)に官営となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払い下げられました。明治42年(1909年)に錫鉱を発見し、「日本一の錫の鉱山」として、発展しました。
大正8年(1919年)神子畑に新選鉱場を建設。昭和27年(1952年)三菱金属鉱業株式会社に社名変更。昭和52年(1976年)明延鉱業株式会社として独立。主に銅、亜鉛、錫などを産出。昭和62年(1987年)、円高と金属価格の下落により、地下に多くの鉱量を残しながら閉山しました。


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