私の体験した大東亜戦争

1    幼かった頃

寺尾寿正

昭和12年7月7日、支那事変が始まった。 私はその時小学校の2年生であった。

所は、島根県美濃郡匹見下村大字落合、村立落合小学校その又末の八尾分校の2年生,周りは山又山、野人の住む様な田舎であった。

1年から3年生迄をこの分校で学び、4年生から6年生を本校である落合小学校で学んだ。

わけても4年から6年生までの先生は、陸軍少尉の先生で先生と言ふよりも教官と思える様な人柄の方であった。

お陰で私は純粋に尽忠報国の精神を植付けられた様に思う。時は支那事変の真っ最中、蒋介石の後ろに米国と英国が控え、日本を、潰そうとして、物資を送り続けていると、毎日の様に聞かされた。

私は、子供心に白 人達のアジアに置ける横暴振りを、腹の立つ思いで聴いて居たものである。

5年生になった頃よし大きくなったら、軍人になろう、そして日本の国を守らなくては成らないと真剣に考える様に成って行った。

それは、其の時の教育が、そうなるべく、教育されていたのかも知れない。

 

 2  大東亜戦争勃発

6年生の終りに近ずいた12月8日、いよいよ大東亜戦争が始まった。

私と原 宏君は放課後、校長先生の指示で何をさせられて居たか今定かではないが、確か、午後4時頃であったと思う。  突然、村長が見えられ、いよいよ、米英を相手に戦争に、突入しました。 と告げられ、校長先生は、やはり来るものがきましたかと、対応しておられたのを、眼底に焼きつくように記憶している。

私と原君は異常なまでの興奮に陥り、校長の指示により帰路についた。  

家に帰り着くやいなや、戦争の始まった事を家中の者に報告した。父と母と祖母は、喜びの様子がなっかたのが私には不自然に思えたのを心の奥に記憶している。ハワイにおける大勝利、、9軍神の偉業どれを見ても、聴いても、少年である 私には歓喜の連続であった。其のとき私は、陸軍でも海軍でも良い、入れる年齢が早くこないかと苛立つ様な心境であった。

そして6年生を終了、隣村の匹見上村立高等科えと進み勉学に励んだ。

高等科1年と2年の2学期までは、大森と言う、陸軍伍長の先生であった。 この先生は非常におとなしく、やってよい事、悪いこと、生意気盛りの私達を教え諭してくれる様な今時には、見られないような、良識のある先生であった

あの先生のお陰で物事を、落ち着いて考える様になれたと思っている。

2年生の3学期は当時ではめずらしく男女共学になり、三好と言ふ女の先生に教わることになった。

何故そうなったのか私達には理解できなかったが、命ぜられるまま女生徒の教室に席を移動した。

 三好先生は島根師範学校を出られた優秀な先生であった。

日が立つにつれ、今までの様な雰囲気が、少しずつ変わり始めた事に気が付いいた。

大森先生の時、あれほど喧嘩早い 同級生の中の 

  2,3人がすっかりおとなしくなってしまった。

自然の成り行きかも知れないが、同級生の中の特定の女の子が好きになり始めめた。

変な気分で毎日を学業に励みながら、これが初恋とは知る由もなっかた。

今は戦争中だ。この娘だけはどうしても守ってやりたい。  

そして父母、兄弟も、俺にはこれを守る義務がある

そんな事を思い乍ら過ぎていたある日。乙種少年飛行兵を1年下げて15歳未満で採用する、と、云う制度が海軍に出来た。

年齢を1年下げて、満14歳から15歳未満で志願できると言う制度である。私はこれ に飛びついた

3 採用試験    

高等科2年生になって、受験の機会を伺っていた頃、やはり募集があった。

踊るような気持ちで、海軍少年飛行兵を、第1志望とし、第2志望を水兵として志願をした。其の年の 12月今の益田市において、 学科試験と体力試験が行はれた。私は何故か最後迄残され、やっと試験官の前に呼びだされた駄目なのか? 絶望感を感じながら、試験官の前に立った..

其のとき、試験官の曰く、お前は今日の試験で100点満点であった。        満15歳未満の少年で100まんてんが、お前1人であったことは、本官が探していた職種に合格したことを立証できる。

体力も充分である。  どうだ、海軍に入ってからでも、飛行兵に転進する制度もあるから、第一志望を水兵科に変えないか!飛行兵になるのは士官になってからでも遅くは無い。  と言われた。私は即座に何でも良いから、海軍に採用して下さいとお願いしたのを覚えている。

当日、適任証書を受け取り、勇躍旅館まで、帰った処,お前が1番遅いのはどうしたのか?。駄目だったのか?

と、匹見上村の助役さんから聞かれた。 

私は適任証書を見せ、受かりましたと告げた。

そして翌年1月中旬採用通知が送られてきた。採用通知には、19年5月25日大竹海兵団に、入団を命ずと書されていた。  

原君も採用され2月の中旬、学業半ばにして、、出征した。

14歳の軍人、最初の門出と私は思っている。

私は早く5月25日が来ないかと、いらいらしてまっていた所、5月16日、昭和19年5月22日、大竹海兵団に入団すべし、の命令書が来たやった、軍人になれる。私は有頂天になった。

 4.入団

5月20日落合国民学校において、壮行会をして頂き、死しても国の安泰と皆様を守る事を誓います、  と大きな声で挨拶をした。  

やがて木炭バスが到着、万歳 バンザイの日の丸の旗に見送られ、征途についた。

私は感激のあまり、涙が止まらず異常な迄の、感動を味わった。  

 この時の感激が、後の海兵団生活の中で、どれ程励みになったか知れない。 5月22日に入団すべしであるから、20日に郷里を出発、益田にて1泊、津和野中学に居た弟と父と3人で最後の夜を過ごした。

4年から6年生迄教えを受けた山根先生とも今生の別れを告げ、特に可愛がって貰った三好松枝先生とも、最後のお別れをし、もう後は何も思い残す事は無いと、心は落ち着きそのものであった。21日の夕刻5時特別列車に乗り、いよいよお別れの時が来た。

乗車をすませ、窓を明け父と最後の別れをする時刻になった。  一緒に入団する斉藤と席を共にし、互いの父に左様奈良、うわいき(過労)をしてはいけないよ。

お父さん、有難う。  其れを言うのが精一杯であった。

奇しくも父の弟である、政おじさんも、浜田の連隊に入隊召集せられるとの事、軍服姿で私を見送って下さった。 

列車はお構いなく、私たちを引き裂くが如く動き出した。

父は大きな声で、バンザイと付近の人を誘導するかの如く、大音声で唱えてくれた。

バンザイ、バンザイの声一色の別れであった。

列車は山口線をひた走りに小郡目指して驀進している。  途中の駅で止まる度に,次々と乗車する人々、皆海兵団行きと聞かされた。列車はやがて小郡駅についた。

すぐにでも山陽線の列車に乗れるものと思っていたのに3時間、プラットホームで待つことになった。  ようやく11時過ぎ軍用列車が到着、すぐに乗車、列車は動きはじめた。

山口線とは大違い、その列車の早いこと、暗闇の中鎧戸は下ろされ、今どこを走っているのやら皆目判らないまま暫しの仮眠をむさぼった。薄暗い車内灯の中、時は刻々と流れてゆく、私は、うつらうつらしながら時の立つのを待つだけであった。

何時間たったのか、やがて今岩国を通過した、次は終着駅の大竹である,忘れ物の無い様に下車の用意をしろ。軍隊調の口調で指示があった。

さあ着いたぞ、私は張り切って下車の用意をした。  大竹−、大竹−、の、アナウンスでわが身の引き締まる思いがした。

同時に今から第2次検査がある、若し不合格であったら、どこで死のうか、もう私は後戻りはできないんだ。  天は私をどうしてくれると言うのか。

悲痛ともいえる、わたくしの、心の叫びであった。

下車して何十人かの員数が整列すると、海兵団から迎えに来た教員に連れられ駆け足で、歩調をとり乍ら、海兵団に向かった。  駆け足で15分、待望の大竹海兵団の営門の前で,頭ら左、難なく営門を通過, 錬兵場に整列。 其のとき、満15歳未満の者、こちらに来い。    大きな声で伝達があった。  張り切っている私は指導の通り15歳未満と、書かれている表示の前に整列した。

やがて一目で判る士官に、姓名を聞かれた後、本官について来いといわれ、私1人であったが誘導して下さった。  やがて4兵舎と言う兵舎に到着、貴様は42分隊4教班である、この兵舎に入り自分で探せ。   玄関を入ると42分隊は右と矢印があった。私は迷うことも無く、4教班に到着した。    鋭い目をした下士官に、寺尾寿正です。  命に依り、ただ今到着致しましたと告げた。  おおそうか、お前が1番乗りだ。気合が入っていて宜しい、まあ此処に腰掛けろ。    腹はへっていないか、汽車に酔っていないか?  体の調子は良いか?

何でも本官に言え、と言われた。   はい、腹がへっています、握り飯が有りますので食べさしてください、とお願いした。  よしハッキリして居て宜しい、このテーブルで食事をしてよい。  食べ終わったら、第2次の身体検査がある、本官が誘導するから付いてくる様にしろ。  食事を終えたことを報告、いよいよ第2の関門である、身体検査場に導かれた。   姓名と生年月日を名乗り検査を受けることになった。  身長、体重、目、鼻、口、肺活量、更に性病の検査、等々、多岐に渡る検査を受け、最後に軍医の前で、今で言ふカルテらしき書類を見て、良し、合格、 左腕に合格の印判を押され、42分隊まで駆け足で帰り4教班の、班長に報告した。    班長は、おおそうか合格か、良かったのー 頭を撫ぜて,おめでとう、と言って貰えた。  何故か兄に会った様な気分である。

此れが、後に鬼班長に変わろうとは其の時、夢にもおもわなかった。

昼食の時間が、せまった為、今から、主計科ほうすい所迄連れて行く、良いか、お前が1番先に入ってきたのであるから、道順を良く覚え、後から入ってくる者達に教えてやる様に、本官は2度と教えないから良く覚るのだ。

 良いな。 食事に必要な、飯、汁、茶、食器、そして、其の消毒室、4箇所に置ける所在地、しかと覚える様に。  食卓番は4名をもって構成されるが、今はお前と2人だけだ  良くその位置を覚え、後から入ってくる者に教えるのだ 良いな。 

1番に入ったと言うだけで、これは重責だと思った。班長と共に、食事用意をした頃、私の次に入って来た者たちが、次々と検査を終えて、帰ってきた。

皆は、私を上級兵と思ったのか、陸軍式の敬礼をして、はい、はい、と硬くなっていた。

私は、俺達は皆、今から教育を受ける、同年兵なんだよ。気を楽にした方がいいよ。と告げた。  たまたま私が先に到着しただけなんだよ。 其れを聞いて、皆なうちとけた雰囲気になった。    私の次に入って来たのは,牧,という岡山県出身の男であった。

それから後は、誰が先やら、後やら覚えていない。夕食迄に4,5名の者が到着したのは確かである。  夕食の、食卓番のやり方等、私が先着であった為、4名を引率し各所の位置を教え、飯、汁、茶、食器、を教班迄持ち帰り、食器の配列、4種類の食器に何をどういう風に配膳するか、まだ不確実乍ら皆に教えた。

その間、教班長はニコニコとした顔で私の教え方を見ておられた。  食事が終わると 何処の家庭でもある様に後片付け、食器を洗う場所、洗ったら食器は消毒室え、バッカンは主計科の定位置へ、最初、教班長依り教わった所に収納、急いで兵舎に帰る。

夕5時が食事であるから6時から、自由時間。  でも、くつろいでは 居られない。

衣納の中の衣服に、合格 したのだから名前を書き込み、私の持ち物である、という宣言をするのである。海軍は、名前ではなく、番号が、与えられる。私の番号は、呉志水00000(秘密上0にする)1日に4名か5名の者が入団してくる。

    其の度に同じ様に教え、先輩気分を味わった。。   しかし私に対して、ハイ、ハイと言うのはやめてください。  これから先、私達は同年兵として、教育を受けるのですよ。  と言う事を1人1人に伝えた。

 でも25日に成っても入団式がない。変だなあ、後で聞いたら、第2次検査で不合格の者が帰り、補欠の者が入り教班の再編成が行われ、6月1日入団式があるのだと聞かされた。私は22日から31日の間、教班長から教わった 軍服の着方等を、再度練習し、6月1日の入団式に備えた。

5  入団式

6月1日、総員起こし、吊床くくれ、4兵舎、練習兵分隊、第1種軍装に着替え、0800錬兵場に集合、の命令があった。  朝食を済ませ、各自、第1種軍装に着替え、教班長に、1人1人検査をして貰い、8時15分前までに錬兵場に集合、隊列を組んだ。

やがて海兵団長と思われる、威厳の有るお方を先頭に、10数名の士官の方が1人1人を確かめるかの如く閲兵して回られ、最後に、海兵団長が1段と高い指揮台の上に上がられ、お前達、41、42、43、44、分隊、全員に海軍2等兵を命ずる。

    色々と慣れないことも有るだろうが、今日から軍人であると言う事を肝に銘じ、寸刻を惜しむ事無く、刻苦勉励するように。   と言う風な訓示があった。   海兵団長の訓示の後、後続の士官からも訓示があったがすっかり忘れている。    入団式が終り、2等兵となった喜びを胸に、隊列は悠然と歩調を取り、錬兵場から兵舎にかえりついた。    第1種軍装を事業服に着替えの号令のもと、皆、今までの様に着替えをはじめた。    其の時である。  大音声で、貴様達は今日只今から、海軍の軍人である。何だ其のざまは、遅い、まごまごするな。

早くやれ。 早くできた教班から報告しろ。  初めての、厳しい言葉にびっくり仰天。

急いで着替え、第4教班終りましたと報告した。  私はその時思った。  なんだか昨日までと違い始めていることを.
  昨日までは、兄のように、又母の様に、手取り足取り優しく教えてくれた班長が、がらりとその態度が変わり、鬼神の如き容貌に変わってしまったのに一寸びっくりした。昼食後、42分隊全員に告ぐ、良く聞く様にと指示があり、分隊長
高見大尉の訓示の後、分隊士の藤井兵曹長から、お前達は、今日、海軍2等水兵を拝命して、立派な軍人と成ったのである。  今お前達は、格好だけは、1人前に見えるが、1番大事な、軍人精神がまるきり入っていない。 お前達は、今日から1年間、各班長と共に、海軍軍人としての教練をする事になる。  お前達は将来の日本海軍を背負ってたつ、中堅幹部として勉学すべく、全国から選りすぐって、選ばれた精鋭である。 

先ず、午前中は中学5年生までの学力を、1年間で頭に入れて貰う。

午後は一般の軍事学と教練を受ける。   1年間の基礎教育を受けた後、各自の特技に向いた術科学校に入学、普通科、高等科、(普通は普通科も高等科も3ヶ月、)専修科も合わせて2年間、海兵団と合わせて3年間の練習兵教程を終了した後、江田島海軍兵学校に、入校する。  

  兵学校を3年、卒業と同時に、士官候補生となり、後少尉に任官する。 即ち、入団より6年で少尉に、任官する。術科学校とは、砲術、機関、衛生、航海、信号、通信、工作、(木工、金工)主計、等、専門の学校である。兵学校卒業時に、航空隊に志願、入隊する事も出来る。

これが、お前達に与えられた、義務であるからして刻苦勉励し教練に励むように。判ったな.

  各教班長を兄と思い判らんことは、質問して一時も早く海軍軍人としての責務をまっとう出来る軍人に成るのだ。

この制度を海軍特別年少兵と言う。昭和17年から始まり、お前達は第3期である。これを練習兵と名付ける。 と訓示があった。 其の後各教班長の、お話が各教班において行われた。 私は1次試験の時、水兵科に変えないかと、試験官に言はれた意味が、やっと理解出来た。  後で聞いた話で有るが、将来の海軍を担って立つ士官を養成する為出来た、新しい制度らしい。  普通、2等兵から6年で、1等下士官まで上がれたら成績の良い方らしい。 

 術科学校の普通科だけなら、上等下士官まで、高等科を出た者で、大尉迄、と決められて居たとのこと、兵から大尉まで20年なら早い方で30年でも成れぬ人も有ったらしい。

 大尉迄上がれた人を、特務大尉と呼称していた。

大佐以上には成れないらしいが、大佐と言えば艦長クラスだ。少尉に任官した頃から帝王学を学ばせる。其の話を聞いて判らぬ乍ら、約束された将来を夢見て、並々ならぬ勉学と、訓練が始まったので有る。 

だが成績の良い者に限ると言う事だから普通にやって居たのではそうは行かない。水兵科41、42分隊600名中50番以内が成れるとの事であるから、並たいていの努力ではなれない事を自覚した。

6 海軍2等水兵    

私の教班長は宇垣 守と言う、海軍2等兵曹であった。

貴様達は先ほど分隊長、並びに分隊士から、お話の有った通り今日から、海軍2等水兵である。

昨日まではお客さんであったが、今日からは軍人として、厳しく教練するからそのつもりで居ろ。  今から3ヶ月間,教班を統率する者を決める

この名称は当番と言う。当番になった者は,たとえ同年兵であっても,叩くことが出来る。 誰か希望する者は居ないか?   私はやめて置こうとその時思ったので手を挙げなかった。  中川2水が僕がやりますと勢い良く手を挙げた。  教班長は、よし貴様に命ずる。  当番という役目がいかに、きついものか、其れからの毎日、中川は引率の仕方、報告の仕方が悪い、等々、毎日の様に叩かれた。

  私は若し、私に当番が回ってきた時の事を考え、その壷を飲み込んでいった。  中川が、僕と言ったことで、顎を1発、私と言え。全員の者判ったか。!何だかだと中川は叩かれどうしで、あった。

海軍は顎くらいでは済まぬ。非情な罰直があろうとは、夢にも思っていなかった。

入団式から3日も経った頃で有っただろうか、ビ----と言う号的のもと、全員あらゆる動作を止め、と言う号令、全員そのまま硬直、何教班の同年兵か、覚えが無いが、2等兵を命じられるまでは持つ事が出来た、私物を送り返さず、隠し持って居たと言う理由で廊下の真ん中に立たされ、手を挙げろ!向こうをむけ!兵の横に立った班長が木剣を振り上げ思いっきり尻を叩いた。

2発目で失神、倒れた兵に水をぶっかけ、正気にかえった所へ続けて3発合計5発。  叩かれた兵は立つことも出来ず這い乍ら自分の班に帰って行った。  これを見た全員は背筋の凍る思いがした。  ここで、海軍の罰直を挙げて見よう。 まず、牛殺し、前え支え、バッター、顎、宮島遠槽、蜂の巣、鶯の谷渡り、ストッパー、急降下爆撃、自転車競走、蝉の真似、等々よくも此れだけの罰が考えられたものだと思う程、多種、多様に渡る罰直があった。  罰直に、おろおろしている暇はない。  すべての動作に機敏さが要求される。  海軍に入って1番辛い思いは吊床下ろせ、吊床収め、である。

最初の頃は1分以内にやれ、やれるように成ると、40秒でやれ、最後には30秒でやれ!時間を追い、日が経つに連れて時間の短縮を要求される。 出来ぬなら、出来る様にしてやる。  整列!1人ずつ前に出てこい。  手を上げ尻をだせ、今日は10発ずつにしてやるから,ありがたく思え。 力一杯10発もやられると尻の感覚は無くなり、歩くこともままならない。 尻を見ると青く筋が残り、尻全体が、赤く腫れ上がっている。その痛さをこらえ、何事も、迅速確実な動作をしなくてはならない。 毎日、毎日が、地獄の苦しみに変わっていった。

   

7  普通学

入団のこうで述べた通り、我々年少兵は普通学を、それも中学5年生程度の教育を1年で、修めなくてはならない。

それを午前中に、学ぶ仕組みになっている。普通学の時は、罰直はないものの、尻の痛さに、椅子に腰を下ろすのが、大変であった。其処は、教員心得たもの、馬鹿者、座り方が遅い。ドスンと勢い良くやれ、!ウーン此れは叩かれるより何倍も痛い。教員の顔が鬼に見える。

普通学の教員は2等兵曹以上の下士官で、どの方も、師範学校、若しくは大学卒の優秀な学力を持つ教員であった。

国語、数学、地理、化学、物理、英語、科学、中でも国語の中で、国文法は厳しいものであった。   1度、習ったら翌日試験、忘れたとは、絶対言はせない、厳しさであった。   進む者はどんどん進む、 躓いて、遅れると、もう付いて行けなくなる。それ相当の,柔軟な頭脳を持つ者でないと付いて行けない。

私の一生で此れ程、真剣に、勉学した事は、いまだかって無い様に思う。 普通学の中で数学は、国文法に次いで厳しかった。最初の内、代数、因数分解、等は国民学校の高等科で習って居たので左程の苦労は無かったが、習った事の無い幾何、三角、微分、積分になると高等数学の分野になる。

中でも三角関数は、15歳の子供では、着いていけなくなる程の教え方で有った。何故なら、軍艦が大砲を撃ち、命中させるには、三角学を基本として、距離、砲の仰角、着弾の時間、当時電探の無かった時代には此れが、測的の基本であったからだ。軍艦の一番上にある横に長い棒の様な物、此れが測距儀、三角を基本とした、距離の,算出機なのである。算出した距離を砲術長に伝え、砲術長は,方位盤を操作し射撃盤に命令をし、射手が、電気回路を開き発射する。口で言えば長いが此れが訓練に依り秒速の単位で行はれる。射撃盤の操作は直接、格砲塔に電気信号で送られる。砲員は其の信号位地に砲のレベルを合わせる、仰角も其れに依り設定出来るわけだ。 そういう話を交え乍ら真剣な学問をやらされた。中には、頭の中が混乱し発狂の様な症状を呈した者もいた。

丁度三角を一生懸命に勉強していた頃である。普通学講堂から兵舎に帰ってきたとたん、班長が木剣で頭をゴツン。班長は耳を私の頭に近寄せ、何々?サイン、コサイン、タンゼント、だと?  聞いたこと無いなー。班長はふざけてだろうが、こちらは、タンコブです、痛いですよ、まったく !

その頃下士官の間では、  かわい顔した年少兵の。  頭をちょいと叩いて見れば。   サイン、コサイン、タンゼント。  聞いたこと無い音がする。

と歌われ、誰彼かまわず、頭をゴツン。我々は大迷惑。 誰かが、少佐文官(海軍雇用の、年少兵教育少佐相当官)に告げたらしい。ぴたりとそれが無くなった。

今でもその時叩かれた縁で、90度、60度 30度の直角三角形で、サインは長辺と縦、コサインは長辺と底辺、タンゼントは底辺と縦、それぞれの辺を1辺とする、正方形の関係をピタゴラスの定理と覚えている。

8  軍事学と教練

午前の普通学が終り、午後は軍事訓練である。此れが15歳未満の少年兵には、非常に辛いものが、あった。先ず、手旗信号、手先信号、陸戦教練、銃剣術、相撲、カッター、水泳、櫓漕、艦砲、射撃、どれをとっても、20歳も15歳の兵も、教えられる事は同様であるから、その辛さは論外である。  2等兵の終わり頃から射撃の教練が始まった。艦砲訓練と、小銃の射撃訓練だ。日本海海戦で使用した形式の古い艦砲での操作である。砲、1門、1門が独自に敵艦に照準を合わせ、独自に発砲すると言うやりかただ。班長の号令で砲員整列。番号。射。旋。尺。1,2,3、4、5、6、7、8、9、この12名が砲員である。班長は、左30度、同行の、(または、逆行の)駆逐艦、距離3000..

撃ち方始めと号令、1は尾栓を開く、2は砲の中を覗き、砲身の中に異物の無いことを確かめ。よーし、と手を挙げる、3は弾丸を砲の薬室迄両手で差し込む。

4は長い尺棒で弾丸を中まで押し込む。5は装薬を、薬室に装填する。1が尾栓を閉める。

6が尾栓に信管を差込み、射との電源を繋ぎ装填よーし。これから、旋が最初命令された、左30度、に砲を旋回、尺が距離3000の仰角に砲をハンドル操作し固定する。  射が発射の引き鉄を引く。圧縮空気が砲身の中に放射、ガスを抜く。  が此れは訓練であるから弾は出ない。  旋と尺は元の装填角度まで砲を戻す。1が尾栓を開き7、8、9、が中の装薬弾丸を取り出す。これで1操作完了である。いまの弾は発射したとする。次弾発射用意。2は砲身を覗き、薬炎の無いことを確かめよーし。そして次弾装填。これを1時間はやらされる。7、8、9、は重い弾丸と装薬を火薬庫から出したり入れたり、一番の重労働だ。  班長は、次々と目標を変えて号令をかけてくる.

 信管を抜いた15センチ砲の弾丸は30キロもある。 直径15センチ、長さ45センチの弾丸は子供の俺達に持ち上がる訳が無い。だが遣らなければならない。

砲の操作はどうにかやれても、砲弾を装填する力が無い。班長の叱咤と木剣が飛んでくる。私は田舎の百姓生まれの為、難なくこなせたが、体力の無い都会育ちの者達は随分と苦労したようだ。  1等水兵になった初期に、小銃の実弾射撃の教練が始まった。

模擬弾で5メートル先の標的を狙い発射する。中々当たるものではない。1週間もした頃総仕上げの競技が射撃場で行はれる事になった。


7.7ミリの実弾15発が1発ずつ、発射位置についてから班長から渡される。班長は発射するまで30センチと離れない位置で、待機される

皆、不思議に思っていたがその昔、日常叩かれる腹いせに班長を撃ち殺した者が居た為、銃を振り向けられない、位置に待機する様になったと言う。 寝撃ち、膝撃ち、立撃ち、各5発ずつで、成績を競う。何教班の者が最初に撃ったか判らないが、其の、音の大きいこと、ビックリして尻餅をついた奴が居た。

私は、総得点、150点満点のうち、135点の成績でお褒めの言葉を頂戴した。上位の者には、拳銃の射撃が体験できる。私は3番であった為、撃たせて貰えた。5発を装填し的を狙う。発射。1発も当たらず0点、その時も班長は射手の後ろ、身を擦り付ける様な位置で指揮を取る。

徹底した用心深さだ。これで拳銃は当たるものでは無い事が判った。

 

9   カッター

中でも、カッターは、特に厳しいものがあった。  3メートルもの櫂は、身に余る重さである、私の様な上位な体格を持った者でも辛い重さなのに、私より下位の体格を持った者には相当の苦しみであったと思う。 教班長の号令について行くのが精一杯で、絶えず重さとの戦いであった。 

 櫂立て、櫂用意、漕ぎ方始めで、班長の号的に合わせ櫂を漕ぎ始める。 

 始めの内はてんでばらばら、櫂同士がぶっつかって、思うように漕げない。

其のたびに班長の罵声と共に詰竿が、背中に飛んでくる。  背中にはあたかも軍艦旗の様な、赤い痣が出来る。 

  手には豆、尻の皮はむけ血がにじむ、汗が目に入り目が痛い、拭うことも出来ない、従って目は見えない。  精も根も尽き果てる頃、櫂上げー、

行き足とめー、櫂の先を海の表面に直角に下ろし速度を弱める。櫂立て、 其のうち、ザザーと言う音と共に砂浜に乗りあげる。 後ろを見ると宮島の砂浜に乗り上げている、櫂直せー。上陸。  号令は一時の休みも無く飛んでくる。上陸と同時に砂に足を取られ転ぶ者もいる。  何をぼやぼやしている !整列。番号。員数を確認、休め、折敷け。  夏の熱く焼けた砂浜に、皮の剥けて血の滲む尻を下ろす。  飛び上がる様な痛さだ。  

 どうだ、気持ちが良いだろうが、何が気持ちが良いものか、焼け付く様な暑さを 我慢しているのに、やがて、木陰に入れ、やれやれやっと人心地が着いた。

横になりたいが、海軍はそんなに甘くない。  何とか呼吸も整い安堵していた頃、出発ッ、まごまごするな。  

  櫂立て、櫂用意、漕ぎ方始め、暫くすると漕ぎ方やめー、行き足止め-、えッ?何故ッ、各班一線に並べ- 16教班のカッターが横一直線上に並んだ。

今から、海兵団まで帰る。但し競漕である。  指揮艇の旗が下りるのを合図に、16隻のカッターは,渾身の力を込めて櫂を操る。 手の豆がつぶれて、血が櫂を赤く染める. 

尻の皮も完全に剥けて座板を、赤く染めて来た。  そぞろ、気も遠くなり始めた頃、櫂上げ−、左舷櫂立て−、防舷物出せ-、詰め竿用意、班長はその間、艇をうまく桟橋に横着けする。 カッター当番2名をのこし、上陸。  さァ-其れからが大変である。     

カッタ−を、ダビットに吊り上げなくてはならない。  下ろす時の反対をやる訳だが、下ろすと、上げるのは、大違い。  上げる方がもちろん重い。奇数教班と、偶数教班に別れ、長いロ-プを、ホイッスルに合わせて引く。w滑車であるから、相当に長い、距離を引く。  左右、平等に引かないとカッタ−は傾いてしまう。

其れを班長のホイッスル、一つに合わせ、吊り上げるのだ。 ダビットの,定位置迄上げると、スットッパ−の係りが引き綱を固定する。  固定が終わったら引き綱をまとめて、所定の位置に架ける。  16隻のカッタ−を、上げ終わる頃、15歳の子供には、力の限界に至る。

  隊列を組み、歩調を取り、兵舎まで帰る。  食卓番整列、順巡りとは言うものの、其の日の食卓番は、悪まんである。  何時もの通り、教程を終え、1800(午後6時)温習の時間である。2000(午後8時)までの(2時間、午前中習った復習をする。   この2時間が又曲者である。当然の如く眠気が襲う。私は皆に遅れまいと必死に、復習をする。やった、出来たと、思った瞬間、容赦なく眠くなる。  針を10本位い、束ねた物で、腿を刺す。一時は目が覚めるが長続きしない。明日の予習どころでは無い。  何とか時間を潰し、兵舎に帰る。8時45分これを海軍では、2045(ふたまるよんごう)と言う。総員吊床下ろせ15分前である。  

  拡声器は、やがて総員吊床下ろせ5分前を、報ずる。

後5分、此れが長い様に感ずる、嫌な時間である。 2100,総員吊床下ろせ、まだまだ動いてはならない。 当直下士官の号的で、ホヒ-ホヒーヒ、総員吊床下ろせ、戦いの火蓋は切って落とされた!!    遅い、遅い、容赦ない下士官の叱咤、下ろし終わって報告。  

  何だその座間は、遅い、やり直し、総員吊床括れ、又しても遅い、吊床を担いで兵舎3週、帰って吊床下ろせ、此れを3遍も遣らされる、くたくたに成った頃、やっと終了となる。吊床の中を整備し、事業服を、丸め枕のようにして、ハンモックにはいる。

此れで眠れる訳では無い。まだ巡検が待っている。 やがて、いとも悲しい悲哀を込めた様な巡検ラッパがなる。  

  静かに、物音一つ、たててはならない。巡検の士官が、分隊を通過する。

当番兵は大きな声で、第42分隊異常無し、捧げ銃をして報告をする。

やがて巡検終りタバコ盆出せ、明日の日課予定表通り、のアナウンス。

さあ 其れからが嫌な時間になる。 教班長が、今日のお前達の行動は何だ!

空気が抜けている! 今から気合を入れてやるから有り難く思え。 又尻を2,3発叩かれ吊床にはいる。 中天に懸かる月が、窓の外に見える。ホームシックはないものの月は涙を誘う。  未練がましい自分に鞭打ち乍ら涙とともに、いつしか眠りに着く。

10  総員起こし、海軍体操

総員起こし15分前、当直下士官の号令で目を醒ます。前日の疲れで、一眠りで朝を迎える。用便を済まし、班長の吊床を収納し、吊床のなかの毛布を整え、さあ何時でも来い。

拡声器から、総員起こし5分前、の号令が懸かる。 其の時昨夜の、巡検前と同じく寝て居るふりをする。 いよいよ起床のラッパと共に、総員起こしの号令が懸かる。

でも動けない、当直下士官の号的を聞き、総員起こしの号令で、吊床を括り、ネッチングに収納、1教班から16教班迄順番に顔を洗い、歯を磨く、16個教班の、洗面が終わる頃、ラッパの音と共に兵舎はなれ、兵舎間の広場に整列、海軍体操、終わると、食卓番整列。  朝食。 午前中普通学、この連続が、3ヶ月、その間、普通学もどんどん進行する。 

 午後の軍事教練も新兵教典に定める予定表に従って、どんどん進行する。  そうして3ヶ月間の新兵教育が終了した。

11   進級

9月1日第2種軍装に着替え、0800(午前8時)、錬兵場に集合、入団式のときと、同様に整然と隊列を組む。 兵科41,42分隊、機関科43分隊、衛生科、44分隊、合計で700名余りの兵が整列をして待つ。 

 やがて、海兵団長を先頭に多数の士官が見えられ。、各分隊ごとに、閲兵が始まる。 直立不動、目も、鼻も、口も、体のどの位置も、動かしては、ならない。息詰まるような、閲兵が終り、海兵団長が指揮台に上がられ、

貴様達は、この3ヶ月間良くぞ辛抱した。入団時と、今とでは、雲泥の差である。

良くぞ、ここ迄来た。  本日海軍1等兵を命ずる。まだ先は長い。一生懸命、刻苦勉励し、一時も早く一人前の兵士になる様に。 海軍は、各科の兵員が、力を合わせて初めて、軍艦が動くのである。

自分の与えられた職務を、いかんなく発揮出来る、自信を早く身に付け奮闘できる兵になる様、期待する。  と訓示があった。

さァ、 今日から待ちに待った、1等水兵に昇級した。 嬉しさもさる事乍ら、今日から1等水兵としての、責任ある、行動が強要されるのだ。

教班長も、今日は機嫌よく、皆の者、進級、おめでとう。本日は、午後の軍事教練も、無い。心おきなく進級の、手紙を書くなり、身の回りの,整理をしろ。 

 明日からは1等水兵として、恥ずかしくない様。一段と、高等な訓練が待っているから、覚悟しろ。 なんだか進級したら今まで以上の辛さが有る様に、思える。  

  其の日は吊床訓練も無く、おまけに、夕食には赤飯が出た。

嬉しさと、不安を、胸に抱き乍ら一夜が明けた。  総員起こし5分前。 総員起こし。何時もと変わらぬ朝を迎えた。   と思ったのは、大間違い、貴様達は、昨日から、海軍1等水兵である。  

  2等兵の時と、同じ遣り方では、1等兵としての、資格は無い。!!

やり直し!  総員、吊床下ろせ、下ろすと、吊床くくれ、これを2,3遍やらされる。

なんだか1等兵になって、損をした様な気がする。  でも此れで、日曜日の午後には、外出が許される。  

  海兵団の中だけで、3ヶ月。娑婆(一般社会)の空気も、吸えなかった者達に取って、最大の喜びである。

12   面会

 10月になった頃であったと思う。父が面会にきてくれた。

日曜日の午後外出できるので、下宿で面会出来る、と向井、同年兵の母からの手紙があったので来たと言って、団門の手前で待って居てくれた。

思えば、懐かしい父の顔である。  隊列を組んで、団門を出て来たので、声も掛けられない。 300名を超える、外出員の中で、同様な軍服姿の私を見つけるのは、至難の技であったと思う。 

 下宿に付くや、一目散に団門目掛けて走った。半ばあきらめた、しょんぼりした父を発見、父さんと、声をかけた。  おォ-、寿正か。頭の先から足の先まで見て、やっと安心した風貌にみえた。  右手には海軍1等水兵のマーク、父は其れを見て、階級が上がったのか?良かったの-  と言ってくれた。

下宿迄一緒に帰り、父が持参して呉れた、郷土のお土産を、腹一杯食べた。

その日は空襲警報も無く、1600(午後4時)まで話ができた。

別れは、軍人らしく敬礼をして、無理をしないでな、父さんそれを言うのが、精一杯出あった。  別れは早い。もうすぐ団門、又海軍軍人としての教練がまっている。

兵舎に到着、軍服を、事業服に着替え、食卓番整列、15分後には配膳が終わる。

今日はなるべく少ない飯の所に着席だ。外出でたらふく食うことの出来なかった同年兵に分けてやりたいのだが、海軍は其れを許さない。  

  死ぬ思いでかき込み知らん顔を決め込む。  だが体の方はそうは行かない。ウッ 腹から突き上げる様な嘔吐。厠や(トイレ)で思い切り吐く。  

  教班長に見つかったら、どんな罰直を受けるか。 食べ過ぎた己がうらめしい。  

  誰かが教班長に、告げ口をしたらしい。  早速呼び出され尻を5発やられた。 同じ同年兵で有りながら告げ口をするとは。  俺は、そいつを探す事にした。

そうこうしている内に、隣の5兵舎に、郷里の同級生であった、檜岡と、川尻が志願して入ってきた二人が会いにきた。  何教班の班長か忘れたが私に連絡してくださった。

班長に届け様にも教員室に班長は居ない。 私に連絡して下さった、班長が、俺が言って置いてやるから、行って来い。 

 と言われたので走って行き、5分程会い、お互い頑張ろうな−と言ってわかれた。  其の時教班に居たのは、田坂と言う同年兵だけであった。

  帰って来るなり、教班長に呼び出され、俺に届けもせず、会いに行くとは何事か。  又しても尻を5発叩かれた。 判明した!田坂と言う奴は軍人の風上にも、置けないやつだ。  私が叩かれるのを見て、連絡して下さった班長が、俺が許可したのだ宇垣教!と言って下さったが、その時は既に、叩かれたあとだった。

でも、犯人?が見つかった事が嬉しかった。 自分の株を上げる為、告げ口をする。なんと子供の様なやりくちか。私は今でも田坂を見下している。 

 次の外出のときだったと思うが、田坂の親が面会にきた。 言わずもがな、田坂は食い過ぎ、夕食を食べきれず帽子の中に飯をいれ、厠に捨てるのを目撃した。私は告げ口もせず彼の人格をみた。

班長も田坂を可愛がり、田坂も、有頂天に成っていた。

私は、どんな事が、あろうとも、田坂の様な、人間には成りたくないと、心の中から思った。

同年兵はお互いの、欠点をカバ−してやるのが友情であり、軍人の結束であると信じていたからだ。

13     艦務実習

海兵団岸壁に、日本海海戦に従事した初代、矢矧において、艦務実習が行われた。    吊床を担ぎ、乗艦。 居住区の配置を受けてネッチングに吊床を収納、総員、上甲板に集合、後部甲板に移動、軍艦旗掲揚、頭ー中、終わって艦内見学

なにしろ明治時代の古い軍艦の事、狭いのと天井の低い事、当時の軍人達の苦労が偲ばれる。

大砲は取り外して有るので艦砲の訓練は無かったが、カッターの上げ下ろしでは随分と鍛えられた。

艦上では長くロープを引くことは出来ない。あちらに滑車こちらに滑車、2重3重に分かれてロープを引く。陸上の3倍は辛い。  やっと終った頃にはヘトヘト、息も接げない。今度は、艦の出入港時の諸動作訓練。

夕食は兵舎にて、巡検は艦内で受けた。艦内のペンキのくさいこと翌日総員起こしの頃には全員頭痛、もう2度と

艦務実習は御免だと誰もが思ったに違いない。

14     宮島参拝

10月下旬のある日、朝食済ませたあと、第1種軍装に着替え、連兵場に集合、

急げ、また何事だろう、食卓番は主計科から弁当を受け取ってこい。急げ。

海軍は何をやっても急げ。せっかち人間の集団である。

連兵場集合、服装点検、  えッ。何故服装点検 ?  点検終了、そのまま、回れ右、 

またもや藤井分隊士より、海を隔てて向こうの島はなんと言う島だ。答えろ。

300人、口を揃えて宮島です。  今日は全員カッターで宮島参拝に行く。

これは遠いぞ、手の皮、尻の皮、共に持ち応えるだろうか。不安になる。

ところが班員は19名、12本の櫂、7名余る、その7名が我々12名の副となって1本の櫂を2名で漕ぐ。  これなら楽だ。平常この7名は競漕の邪魔者。

大きな声で応援するだけだ。  今日はつらい目に逢わせてやろうと私は力を抜いて、力1敗漕ぐ真似をしてやった。  宮島本宮までなんと40分、こんなに早く来れるわけ無いのに何故?教班長に早速質問、 ワツハッハ、、、、、、と笑われた。

お前達は、海には、海流と言うものが有るのを知らないな、瀬戸内海は引き潮のときは東に流れ、満ち潮のときは西に流れる。それに加えて、4ノットの速さがある。 つまり追い潮であった訳だ。今日は其の体験のための宮島参拝なのだ。

判ったか。  海軍は、なんでも体で覚える。  本宮で、うやうやしく、神主の、のりとを聞く。  解散後。弁当を食い。早速記念写真を撮る。

桜と富士山の描かれた、50銭紙幣が今日の自由に使える金である。 早速鹿せんべいを5銭出して買う。  しかし、鹿にやる者はいない。自分の口の方が先だ。美味くも何ともない腹の減っている毎日、実に浅ましいものだ。

教班長は、ニヤニヤ笑っておられる。中には50銭全部せんべいに替え、全部食べたやつもいた。長い休憩の後、満ち潮になったらしい。桟橋に繋留してあったカッターに乗艇、1教班から、16教斑の1列縦隊で、本宮に向け、オールを漕ぐ。

1教班ごとに、本殿前で櫂立て、班長は立ち上がって挙手の礼。やがて、櫂用意、漕ぎ方始め、其の時、班長が、寺尾ここえ来い。貴様帰りのカッター指揮をと執ってみろ。はいと答えて艇長席に着き、蛇棒を握った。経験は無い。エーィままよ、やるしかない。 前を行く3号艇の真似してやれ、 くそ度胸を決める。

3号艇は、海に浮かぶ赤い鳥居の前で、櫂立ての敬意を評し通過している。

さー今度は我が艇の番だ。緊張しながら、櫂上げ、櫂立て、今までの、艇の行き足で、難なく通過。 

素早く、櫂用意、漕ぎ方始め、此処まではうまくいった。

3号艇を見ると、左に変進している。3号艇の変進位置まで艇を進め舵を手前に引いた。ところが、艇は右に進みだした。こらー此処から脱走するつもりか、馬鹿者、早速小の詰竿で、頭をゴツン、あわてて舵棒を右に押す、艇は左に向いた。

班長は軍艦の舵輪と、カッターの場合反対なのだ。貴様の座っている艇長席は進行方向に向かって左の席だ。 左に回頭する時は、右に棒を押す、右に回頭の場合

手前に引く、皆の者判ったか。 なんの事はない私が皆の代表で頭をゴツンと遣られた訳だ。

  艇は順調に海兵団に向かっている。  今は満ち潮だからやはり4ノットの海流に乗っているに違いない。   遠く陸地の様子を見るとなるほど、速い。これなら、40分で来る訳だ。  途中漁船が碇を入れ、蛸壺を上げていた。その横を通って見て初めて理解出来た。オール一1漕ぎ40メートルくらい、進む。

これなら、40分で来る訳だ。  

いや50mかも知れない。  やがて海兵団の近くまで帰った。 何時もの競漕の無い事を祈る。 ところが艇長解任、定位置に戻れ。アーァ又競漕か、定位地に戻る。  各班1列横隊に並べ、海兵団迄、競漕。懸かれ。軍服の尻に穴の開かない事を祈る。

15   教班長の昇級

そうこうしている内に11月1日を向かえた。  今日はなぜか,教班長は、上機嫌である。

午前中の普通学を済ませ、教班に帰って見ると、班長の右腕の線が2本になっている。そして、への字の善行章が2本になっている。  

  あ、 そうか、今日は、11月1日だ、5月1日と11月1日が、進級の、日なんだ。 道理で班長機嫌がよい訳だ。  皆、口々に教班長、おめでとうございます。とお祝いの言葉を述べた。 上機嫌の班長は、俺もやっと、ここ迄来る事が出来た。お前達が今味わっている苦痛が、海軍の伝統なんだ、俺もやっと、叩かれない身分に、なれた。 俺は、お前達と違い21歳の徴兵で海軍に入った。3ヶ月の新兵教育を終え、重巡洋艦、熊野に,乗艦、そして毎夜の罰直、そして、実戦、高角砲の砲手として、戦って来た。 敵の攻撃機の急降下爆撃、正面から対決し応戦。砲身も赤く

なり、何時終るとも知れぬ対空戦闘!!

尻を叩かれる依りも怖いぞ。お前達の何十倍も俺は叩かれて来た。 そして恐ろしい、戦闘を体験して来た。

瞬時の気のゆるみが死に繋がる。其の為の罰直なのだ。

時間が過ぎ、年が経過しないと、この味は判らないと、思う。  

  進級と言うものは、それだけの責任が加えられたと思え。俺も、海軍1等兵曹としての、自覚を養成しなくてはならない。 お前達も、来年5月1日には、上等水兵に進級する。

進級と同時に、軍人としての自覚、死と真正面から、対決、最善を尽くす。  此れが、老幼に関わらず、軍人に課せらた至命である。  皆、俺の進級を祝って呉れて、有難う。

  班長の目に泪のあったのを私は、見逃さなかった。

嬉しい気持ち、悲しい気持ち、怒った気持ち、あらゆる、気持ちと、言うものは目に表れるものだ。    班長の喜び方を見て、自分達の将来を,かい間見た見た様な気がした。

16   雪  

12月に入って、山陽地方には、珍しく雪が10センチ位い、積もった。 総員起こしの後総員、上半身、下着1枚になれ。今から岩国の境まで往復5キロ位をランニングする。

今日は偶数教班とする。奇数教班は、兵舎間において、銃剣術。  懸かれ。支給されている物に、

雪時用の物は無い。通常の、運動靴で走った。  其の冷たいこと、寒い事、言語に絶するものであった。 上半身の感覚なし。足の感覚もなし。やっとの思いで海兵団まで帰り着いた。  

  奇数教班は?  と見るとまだ銃剣術の最中だ。

小便しようにも指の感覚がない。凍えきっている。仕方なくズボンを下ろし大の方で用便をすませた。 私だけではない。 全員だ。 班長は? と見ると、平然と小の方で、用を足して、おられる。  やはり、教班長ともなると、体の鍛え方迄違うものかと、思った。  

さァ、  明日は銃剣術の番だ、今度は良いかも、と期待していた。所が左にあらず。

翌日、やはり、上半身1枚、防具を着け、木銃を持ち,兵舎間に整列。  やがて号令があり、今から10分間、歩哨に立ったつもりで、直立。 ヤッ。此れは寒い。体の芯から凍てて来る。  

  死ぬかと思う10分間が過ぎ、誰彼構わず突き会いを始める。

いくら、気合を入れて動き廻っても、少しも暖かくならない。  何だ、昨日の駆け足も変わりは無いでは無いか。  この二日間で、風をひいた者、半数以上。 それでも海軍は止め、とは言はない。  府暁不屈の、精神は、こんな極限までやらなくてはならぬのか。2,3日で、雪も消え、其の訓練は無くなった。

17    兎狩り

42分隊で今日は、兎狩りである。

大竹の次の大野の山に分け入った。分隊士の説明では、お前達の、兎狩りを支援するため定員分隊の先輩達が、山頂付近に、昨日の内に、網を張って呉れている。300名の者が、横一列に成って、山の上の方に向かって、ホー ホーと声をかけ乍ら、登って行く。良いな。懸かれ。一斉に登り始めた。 私は島根の山奥で育って居るため此れでは、兎はとても、懸からないと直感した。  なぜなら相手は兎、耳は人間の何十倍も良い。 もうとっくに気配を,察し逃げていると、思った。軍靴に入る雪の冷たさを我慢しながら、山の上目掛けて、登っていった。

案の定、兎どころか鼠一匹懸からなかった。 冷たい目にあった上に、海兵団に帰ってから、軍靴の手入れに苦労するだけであった。

弁当の時間、なんと主計科の兵隊が来て居て、豚汁を炊いて呉れていた。 

分隊士の、藤井兵曹長は、実は此れが目当てで今日の兎狩りをやった訳だ。何杯でも食べろ。  其れッ  と言う訳で食べ始めたが二杯目で、後無し。 どうだ旨いだろう。ハイ  と返事はしたものの、冷たい雪の上、旨くも何とも無い、皆そんな顔をしていた。

18   正月

そうこうしている内に、年末がやって来た。大掃除は、もちろんのこと汚れは来年に、持ち越しては成らぬ、と言うお達しで衣類の洗濯。大忙しの、年末であった。  やがて、元日の朝が来た。 すがすがしい気持ちで迎えた正月であった。

総員起こし。元日だからと、言っても海軍では何時もと何ら変わる事はない。食卓番整列、其の日は、私に番が回って来ていた。 食を、配膳してみると何と、雑煮ではないか。  一人2個の割合で40個入って居た。班長には2個ではまずいと、思って5個入れた。  従って3個足りないことになる。食卓番4名であるから、皆で話し合って1個ずつにした。

でも4名の内誰か一人だけ2個になる、私達食卓番の中で、東出と言う奴が一番痩せている。何時も動作が鈍い、貴様2個にしろ。  東出は喜んで呉れた。

さァ  其の後が大変、教班長は、食卓に着くなり、箸を入れ餅の数を、数えはじめた。

フーン5個か。食卓番起立。お前たち、食卓番の中に1個の者が3名居る筈だ。手を挙げろ。  私は少し怒りを覚えた。人の気も知らないで横暴な態度の班長。情けない思いで、起立した。  其の時、班長は、海軍では、餅は2個に決まっているんだ。そんな事で俺の機嫌を取ろうとしても、通用しない。正直に俺の所へ食器を持って来い。 私達3人は班長の前に行った、1個ずつ餅を入れて下さり、お前達の気持ちは良くわかるが、だが食事に関わらず、いざ戦闘となったら平等に危険に、晒される。兵も下士官も同様である。 今後こう言う事はしない様に。  なんと言う班長の情けか、先ほど、覚えた怒りを恥ずかしく、思った。

食後、明日二日は、大竹練習兵分隊を代表して、呉海兵団錬兵場において、呉鎮守府司令長官の閲兵がある。 42分隊のお前たちが選ばれた事は、誠に光栄なことである。 41、43,44、分隊には連絡して有るから、銃の無い者は借りてくる様にしろ。42分隊各教班には12丁ずつの銃しか無い。 

 班員は19名、ないし18名、従って名前頭から数えて12丁は有るが、後8丁または7丁が足りない事に成る。  私は、名前頭から3番で有るから、平時、銃に付いて厳しく絞られたが、その代わり、他の分隊に頭を下げて借りに行く事は、免れた。 借りに行った連中は、それ相当に叩かれ絞られたようだ。

19    呉海兵団錬兵場、閲兵式 

正月2日の朝、総員起こし、第1種軍装に着替え。 食卓番整列。主計科に行き、朝食と、弁当分の食料を受け取り、各教班準備を完了する。  其の時何と、0200(午前2時)である。  何なのこれは、  ? 銃を持ち、兵舎前整列、隊列は、ダビットの有る桟橋に向かう

着いて見ると、1双の船が泊まって居る。 乗船始め。 300名余りの兵が

整然と乗船する。 藤井分隊士指揮の元、乗船を終わる。 この船は、何処をどう通って呉迄着いたのか。 私は機関室の隣りの石炭の上で、眠り、呉第1桟橋に着いた事だけを、覚えて居る。  上陸。隊列、二列縦隊、並足、一路錬兵場目掛けて行進。

錬兵場手前より、歩調とれ、錬兵場に、到着。 すでに何百人かが、到着していた。

指定された位置に着き、横隊に列を組み、しばし休憩、10分もした頃、気お付け、のラッパと共に、総員、直立不動の姿勢をとる。  分隊士は、指揮刀を抜き、毅然とした姿勢をとられた。

鎮守府指令長官の閲兵である。 始めて見る指令長官である。

次々と閲兵して回られ、いよいよ、我々大竹海兵団42分隊の前を通過。 お言葉が有って、大竹海兵団から来たのか。ご苦労である。特別年少兵であるな。

良く出来ている。と言われた。私は、前列2番目で有るから、良く聞こえた。 次々と閲兵を、終えられ、いよいよ,分列行進である。  銃を右肩に担い、左手を肩の高さ迄上げ、歩調を取り、長官の前を行進、分隊士の号令で、頭-右。長官の前を通過した。

藤井分隊士は、指揮刀を斜め右下に、敬礼の姿勢のまま行進。

其の時、私は思った。 やがて来るで有ろう,我が身が、此れだけの指揮が取れるだろうか ?  海兵団に帰ってから、藤井分隊士は、今日のお前達は良くやった。 気合十分である。 

 さすが42分隊である。 とお褒めの、言葉を頂戴した。

朝早くから、呉迄航海し、分列行進を、特別年少兵として、立派にやり遂げた事を、誇りに思うと同時に、わが身の進展を確認した。  

  軍人精神も入って居る事は間違いない。  だが、入隊した時より少し磨きが懸かっただけと、私は思った。

20  退団の日迄 

やがて、2月も過ぎ3月になった。 入団してから10ヶ月、になる。叩かれ通しの10ヶ月、良くもここまで辛抱してきたものだ。戦局は日々悪くなる、我々3期の兵は、果たして術科学校に行けるのか?不信に思い始めた。

普通科で、1年、高等科で1年、海兵団の1年、合計3年、江田島海軍兵学校で3年其の予定ではなかったのか。

海兵団での教育も、後2ヶ月、退団の日は、間近に迫っている。

所が、3月の中旬になって、分隊士が、奇妙な物を持って全員に集合を掛けた。

電話機である。 普通は二本の電線が必要とされるのが、本来の電話機であるにも拘らず、一本の線しか無い電話機である。 私達は皆驚いた。 分隊士の話を、要約するといまや戦局は最悪の事態を迎えている。すでに貴様達を術科学校に、入れる時間は無くなってしまった。 今日から、電話兵として学んで貰う。 貴様達は電話線が一本でも通話出来る事は、物理、理科学を、習って居るから、判ると思う。 もう一本は、ア−スを取れば良い、陸戦では、しばしば用いられる方法の一つである。

其れを聞いて、なんだ海軍に入って、海兵団の卒業を間近に控え、こんな事しか遣らせて貰え無いのか。実に腹が立って来た。

術科学校に進み、特技を身に付け、戦場に駆けつけ、軍人としての、本分をまっとうし、護国の鬼と化し、華と散れ。と言うのなら話は判る。  純粋である私達には到底受け入れられるものではなかった。

それでも命令なら仕方が無い。半月ばかりの、教習を受けた。 電話交換、受信速記、等色々の教習は、つまらないもので有った  そうして、いよいよ退団の日が迫ったのである。  3月の、下旬ごろである、任地の希望が有れば、申し出よ。と言う事があった。

だが、特定の者だけであった様に記憶している。

私は特攻隊を選んだ。3月31日発表が有った。私は第2特攻戦隊ときまった。

やった、嬉しい、満足して、寝に着いた。

あァこれで将来の約束であった、江田島は夢と消えたのだ。  1期、2期の先輩も江田島え行く事は無く第1線に

配備された様だ。実戦部隊で死を迎える覚悟は出来ている。  さァ来い。体中に気力が漲る。

21   退団式

4月2日、錬兵場に於いて、退団式がおこなわれた。41,42,各分隊,合わせて600名、いよいよ退団である。  水兵科、41,42、分隊600人中、1番で我が班の、向井が選ばれた。

此の向井が其の後、どんな過酷な運命を辿る事に成ったか、後で供述する。

其の日から、実施部隊に配属されるまで、現行の兵舎に於いて仮入団となった。

其の日から訓練も無く、実施部隊に配属されるまで、身の回りの整理等に明け暮れた。

しかし良く出来たものである。この10ヶ月間訓練された身のこなしは、各人共、瞬時のミスも無く、即応の体制が、身に着いている。教練とは各も全員を、一糸乱れぬ行動を取らせる様に仕上げるものなのか。 仮入団の体験は、私自身の過去を振り返せて呉れた。

22  退団

日も余り立たない、4月7日退団。大竹駅を出発。第二特攻戦隊行きは42分隊では、5名位であったと思う。後4,5名は41分隊、合わせて10名足らずで有ったと思う。

4教班からは、私一人であった。宇垣教班長はプラットホームまで来て、私を、見送って下さった。 

 あれだけ、叩かれ、しごかれた、班長で有ったが、別れはやはり辛い。

班長は其の時、良いか。  無駄死にはするなよ。 お前達は、おそらく軍艦に乗る事は無いであろうと思う。本土決戦になった時。陸戦隊の一員として、戦う様に成ると思う。

ここぞ、と思う時に命を掛けるのだ。  と諭して、もらった。と同時に、41,42、分隊600人中貴様の成績は体力9番、学力32番で、綜合点で21番であった。幼いお前達が此れから先、自分の精神をどれだけ、発揮できるか、 お前達の気持ち次第である。人に遅れをとる様な兵には絶対なるな。

判ったな。 俺が教えた通り負けたら死を意味する。お前の将来は見えている。 頑張るのだ。成功を祈る。短い言葉の中に班長の温情を理解した。

列車は無情に引き離す如く発車する。  目には只、涙。軍帽を硬く握り閉め、窓を明け帽を振る。

班長は、馬鹿者、

帽子を落とすな ! と言いながら目には泪を浮かべておられた。  班長、靖国で会いましょう。 私も泪。大きな声で、さようなら 、を言った。

夕刻少し前、呉海兵団に到着、第2分隊に仮入団、トラックで山の方の小学校の講堂に着き、1泊。明くる日朝食後、第2特攻戦隊行き集合。又もトラックにて、呉軍港桟橋につく。  すでに、大発と呼ばれる上陸用舟艇が待っていた。

班長は、軍艦には乗ることは無いであろう、と言われたが舟艇の向かえだから、船に乗れると、思った。前進微速。面舵。舟艇は動き始めた。やがて前進全速、向こうの駆逐艦、ようそろ----。駆逐艦の横を取り舵-向こうの高い山、ようそろ--- なんだ船では無いのか。 舟艇は,音戸の瀬戸を通過。倉橋島の大浦突撃隊と言う陸上の基地に着いた。

23   第二特攻戦隊

第41分隊の伊藤が50音順で、あ、に一番近い性なので、先導を勤めた。

着任の報告をした後、各所に編入された、私は、大浦突撃隊、通信科、に配属された。  通信科の内容は、無線通信、暗号解読、電話係り、等の職種である。

大竹で42分隊で一緒であった岩城等と共に、通信科3班に入れられた。

先任下士官、甲板下士官、甲板助手、大勢の下士官に、着任の挨拶をして回った。

退団した時、宇垣班長から、教えられた事を思い出した。それは、何も出来ない私供ですが宜しくお願い致します。此れだけは絶対言っては成らぬ。良く覚えて置く様にしろ。

と、言われた事を思い出し、私は言わなかった。  誰が言ったか伏せるが、それを言った為に、何も出来ぬ者は此処には、必要ない。何処でも行け。 !!馬鹿者 !

此処は精鋭な人物が揃って居る所だ。  貴様は必要無い。 ! 15歳の一水にはそう言われても仕方が無い、  其の上、術科学校にもいけず、無章の私達であるから何一つ特技もない。、

この分だと、食卓番と使い走りだけだろうなァ  と、覚悟を決めた。

其の時、甲板下士官から、今入隊した者整列。特攻隊員としての、精神を入れてやるから、有り難く思え。 

 手を上げ尻を出せ。 5発程叩かれた。  海兵団では5発は軽い方だったので何だこの位かと、思った がやはり痛い事には変わり無かった。

その日も終り巡検の時間となった。 巡検。 と伝令が兵舎の前を走って行く、拡声器が無いのだ。巡検終りタバコ盆出せ。此れも伝令が走って知らせる。兵舎間を走り抜けた頃、上等兵以下整列、又も甲板下士の号令、今度は甲板助手も一緒だ。

今日入隊した者良く聞け、一寸でも気合の抜けた、行動があった場合には、容赦しないから、其の積もりで居ろ5発程入隊時にバッタ−を与えたが、あれは挨拶である。

今からのバッタ−は、お祝いであるから有り難く思え。 又2発痛いのを我慢しながら列にもどる。

こら−−−。お祝いをしてやったのに礼も言わぬとは何事か。 ! 礼儀もわきまえぬ馬鹿者、良しお負けだ。と又1発。 私は腹が立って来た。何と言う横暴な、そして理由も無い付けたりの制裁。、実に理不尽と言うものだ。

二日目の朝、総員起こし、なんと、下士官が自分の毛布を畳んで居るではないか。

私は素早く自分の毛布を畳み、私に遣らせた下さいと頼んだ。そうしたら、ここは、実施部隊である、自分の事は自分でするのが原則である。  反対に注意されてしまった。

へぇ--- 海兵団の下士官の横暴ぶりと、大違いだなと思った。

それより、食卓番を早くしなくてはと、先輩の上等兵に同行、海兵団に入った時と、同じ様に、其の場所、及び後片付けの、位置等を頭に叩き込む。

食事の後、司令部から、私を含む10名の所属が決まった。私は大浦突撃隊勤務を命ず。乗艦を秋津丸に指定する。と言う命令である。秋津丸は海軍御用船で有ると聞いた。 欠員が出た場合には乗船を命ぜられる事があると言われた。

10名の中で4名程が司令部付きと決まった。私の務めは大浦突撃隊、通信科、暗号班、に所属、解読した電文を、指令長官、戦務参謀、水雷参謀、突撃隊指令、副長等に届ける役目であった。    時としては、暗号長の命令で暗号の解読をやらされた。

暗号の解読は非常に複雑で、暗号書をめくり割り箸の様な1センチ角の棒を、16本
規定道理に並べ、引き算、若しくは足し算をして、最後に出た数字の番号が本文である。   暗号書は何十篇も繰りなおすので、手垢で汚れ見難い文字もある。

成れた兵で1時間、なれない者がやると2時間は懸かる。

解読した文章を暗号長が清書し、私達が届けると言う訳である。  運良く、長官をはじめ各参謀達がおられれば良いが、居られない事が多く一日懸かる事はしょっちゅうの事で有った。    或る時である。  指令長官に届けるべく長官室のドアをノックした。

入れの指示で入って見ると、長官は何か苦るし相に、ベッドに横になっておられた。

電文をお持ちしました。と告げると、起き上がられ電文を読み始められた。 その間、左手で右肩を揉んでおられる。 私は自然に、長官の肩に手が走り、肩を揉み始めた。

長官は気持ち良さそうに、目を閉じて有難うと言って下さった。1時間もあんまして差し上げただろうか。眠られた長官を静かに寝かせ、そっと退出し廊下にでた。まだまだ届けなくてはならぬ所が沢山ある、急いで回ろうとした所、長官の従兵である兵長に オィ と呼び止められた。  てっきり、叱られるものと覚悟を決めた所、兵長は、良くアンマをして上げてくれた。有難う、俺では貴様の様にうまく出来ない、どうだ、二人で従兵にならないかと、言われた。   大浦突撃隊勤務は即日解かれ、司令部付きとなった。主計科、庶務室に所属し、夜になれば、長官、戦務参謀のアンマが私の仕事になった。

でも、昼間は暗号室に来いと言われ、電文の配達は依然としてつずいた。或る時である。  丁度、空襲警報下の事、電信長に呼ばれ、いま空襲中である、この、電信キ-で、モールスのキをたたけ。そういわれても(キ)はどうだったのか、一寸とまどったが、聞いて報告、の記号を思い出し、ツ−トツートト、とたたき始めた。電信長は貴様、教えてないのに判るとは変な奴だなァといわれた。  キ  だけの連続を20分位やらされた、後で

聞いたら、此れは水中信号で、訓練中の特殊潜航艇が着低(海底に鎮座)して空襲から身を守るのだと聞かされ、私の打った信号が、重大な使命をもっていた事を痛感した。  私の務めはそれだけでは無かった。まだ、電話兵としての、夜間勤務がある。

呉鎮守府から懸かってくる、電話を聞き取り、当直士官に、報告する仕事がある。

中でも多いのが、呉地区、徳山地区、警戒、及び空襲警報の伝達だ。  其れにより、戦隊が対空戦闘用意、等の命令を出される初期の伝達である。此れは重大な任務であり、一言半句も、聞き逃す事は許されない。緊張の勤務時間が終り、兵舎に帰った時は、くたくたに成っている。

帰って自分の毛布を被り、さあ、寝ようとした所、枕を蹴飛ばす者が居る、良く見ると、甲板下士と甲板助手。小さな声で貴様の帰りを待っていた。

兵舎の外に出ろ。今日は、皆に5発ずつバッターを呉れてやったが、お前は、勤務帰りなので3発にしてやる。その代わり、バッタ−ではない。ストッパ-だ。ストッパーと言うのは、太いロ-プを長いこと水に漬けて置き、かちかちに、硬くなったもので尻を叩くのだ。其の痛さはバッターの、3倍位い痛い。3発も遣られると15歳の少年では持ちこたえる者は余り居ない。

何故なら、ストッパ-は、体に回り付くからだ。バッターは長く持て、ストッパーは、短く持て、の鉄則が有るらしい。ストッパーを、長く持って叩くと、金玉を潰し殺してしまう危険があるとの事。

左側から遣られたので、右足を半周、金玉の手前で止まった。  その夜は痛さで、眠れなかった。  翌日びっこを引きながら、司令部付きであるから、庁舎に行った。

長官付きの、兵長に見つかり詰問された。正直に言え、と言はれ、ストッパーを頂いた事を話した。良し、今夜から、庁舎に寝ろ。と言われ、その後はひどい罰直を受けなくても済む様に成った。  主計科の庶務の机の上を寝台にし安らかな夜が、続く様になり、主計科の先任下士官も、他の皆さんも、仲良くして下さり、平穏な毎日が送れる様になった。昼間と夜間の電話係、長官と戦務参謀のアンマ、をするのが私の役目として、定着してしまった。暗号室には新任の下級兵が付き、定着した仕事も難なくこなせるようになり、

、4月初旬に着任した頃の、まごまごした、自分からはすでに、脱却し1等兵らしい勤務が出来る様に成って居た。     ここで電文を届けるべき、お方を紹介して置こう。

 

指令長官。海軍少将   長居  満

戦務参謀。海軍大佐   有近六次

整備参謀。海軍中佐   森迫勝美  

水雷参謀。海軍少佐   板倉光馬

突撃隊指令。副長のお名前は記憶から遠くなっている。

どの方も我々がお話し出来る様なお方ではない。なのに肩に手をかけ、アンマ

したのだから、ご機嫌の悪い時なら、無礼者。叱責どころでは済まなかった事だろう。悪くすると軍法会議。   後から考えたら冷汗ものであった。

わが身の、無鉄砲さに自分であきれたものである。

24   進級

そうして、迎えたのが、5月1日の進級の、日である。

朝、 0800広場に整列、指令の訓示、其の後、副長より一人一人の名前お読み上げられ、進級する階級の発表があった。私達下級兵は最後頃に名前を呼ばれ、海軍上等兵を命ず、晴れて海軍上等水兵になった。 嬉しい。 とにも角にも嬉しい。

早速支給された階級章を右手に付け、もう一つ責任の重さを感じた。

其の夜は、兵舎には近ずけないと、思った。 なぜなら、海兵団に居たとき、教班長より教えられた事の中に、実施部隊に行ったら、5月1日と11月1日の進級日には、気をつけろ。兵長から下士官に進級できなかった兵長が其の日上等兵に進級した者たちを、目の敵として、鬱憤を晴らし、無茶苦茶に殴る伝統があるから気を付けろ。

案の定1人下士官になれなかった兵長がいた。其の夜は物凄い荒れようで有ったらしい。  1週間もして、衣嚢の中の物を取り出しに兵舎に帰って見ると、何とあのへいちょうが下士官に進級しているではないか。 聞くところに拠ると、彼は横須賀鎮守府出身で連絡が遅れただけの事らしい。叩かれた者は、損をした訳だ。

ここで、兵舎の様子を説明して置こう。兵舎は、30メ−トル位の長い建物で入り口は4箇所、1メートル位の土間廊下、床の高さは地表から50センチ位、天井無し。其の中に、通信科、信号科、等、約100名位の兵が居住しているのだ

右側、10班が通信科、左5班位が信号科、通信科9班が大浦突撃隊付き、10班が、司令部付きで10名程の編成であった。  もちろん司令部通信員も、大浦突撃隊の通信員徒と供に、3交代で通信室に勤務している。  私はこの10班で食事をするのが、当たり前なのだが、司令長官の肩揉みに成ったので、たまに帰って衣嚢の整理洗濯、等をするだけだった。 食事は有り難い事に、長官をはじめ高官の、食事の給仕を済ませた後、余った飯を戴く。

主計科の方でも、心得たもので我々の分まで、配達してくれる。従兵5名ほどだが、余るほどある。 海兵団で腹の空いた1年を、思い出すと雲泥の差である。  おまけに、兵の飯は、米を研ぐことはないが、高官用は米を研いで、別個に炊いた飯だ。そのうまい事。   そんな事が続いた6月の何時頃で有ったか記憶が定かでないが、大浦崎の向こうに、航空戦艦日向が、現れた。  何処え行くのかと思っていたら、大浦から、2,3百メートル離れた情島の沖に錨を下ろし、動かなくなった。 私は暗号文配達の頃電文を読み、日本は只ならぬ事態になって居ることは、知って居たが、ここまでとはは知らなかった。  日向から、大浦に10名位の兵が転勤してきた。 其の人たちの、話を聞くともう動くだけの、重油が無いのだ、と聞いた。今後は浮砲台、としての任務だ、と言う。

25    日向の着低

7月の初旬であったか、よく覚えていないが、主計科の分隊士が、今から、日向に行くが行って見ないかと誘われ、はい。行きますと返事をし、連れて行って貰う事になった。はやる胸の轟き、軍艦にいける。櫓を押すにも、力が入り20分程度で日向に着いた。

舷門の兵長が、舫いを取ってくれた。 すぐに乗艦、分隊士は、さっさと何処へ行ったのか、姿が消え、付いて行った私と、伊藤、広田は、舷門の近くで待っていた。

やがて、分隊士が、大きな声で、ここへ来い。 見回しても見つからない、狐に摘まれた様な、顔で上を見ると、なんと艦橋の上に居られるではないか。 此処まで上がって来いと、言われたが、さて何処をどう通ったら上まで行けるのか。まごまごしていたら、舷門の兵長が、ここから上がれ、と教えてもらい、やっと艦橋まで辿り着いた。

なるほど、高い、ここで艦長が指揮を取られるのだ、そう思うと、身が引き締まる様な気がした。  此処で艦長の指揮の元、この軍艦が戦闘の態勢を取るんだなと思い、色々な計器、コンパス、舵輪等を見せてもらい、帰路についた。  其れから12,3日も経ったであろうか。7月14日、0930頃であったと思う。空襲警報発令、私は夜勤明けの為、防空壕の通気坑の涼しい所に毛布を持ち込み寝ていた。又か。大した事は無いだろう、そう思って、丁度日向の、見える位置であったので、見るともなしに目が向いた。ところが、なんと、格砲が、上を向き戦闘態勢に入っているではないか。爆音が微かに、聞こえる。

これは容易ならぬことかも、と思って居たら、爆音はいっきに大きくなり、それも10機や20機では無い程の爆音だ。空は曇りで、日向の真上辺りに青空がみえる。やがてその雲の切れ目から、グラマン戦闘機が、急降下、爆弾を落とし始めた。もちろん日向も黙ってはいない。一斉に撃ち始めた。その音の大きい事。鼓膜が破れるかと思った位だ。

だがよく見ると、主砲と副砲は撃っていない。何故だ。私はいらいらする様な気持ちで見るだけだった。後で聞いたら、仰角が高すぎて発射しても、無駄なのだと、きかされた。

グラマンは、次々と降下、爆弾を落として行く。今、撃って居るのは、高射砲と機銃だけらしい。なんとか成らんのかと思って居たら晴れ間がだんだんと、呉の方え動いている。

其の時主砲と副砲が一斉射した。仰角の範囲に入ったのであろう。グラマンが4,5機ばらばらと、落ちるのが見えた。何時の間にか私の回りに沢山の下士官、兵が集まっている。此処が一番良く見えるらしい。日向から転勤して来た下士官であろう、やった、今のは主砲の3式弾だ。やれ!やれ!今のうちだ、皆声に出して、応援している。見れば、日向の周りには、艦橋より高い水柱が、何十本も立って、艦が見えない程だ。よく見れば、舳先の部分が大きく抉り取られ,菊の紋章は無くなっている。命中弾は今の所1,2発位と思われる。  一派が去り、此れで終りかと思い、安堵していたら、二派目のグラマンが30分もしない内に、攻撃を始めた。今度は全砲門が吼え始めた。耳はもう、聞こえない。

其のうち、一段と高い音がした。見れば、艦橋の、根元付近に命中弾。火災が発生。同時に次々と、被弾。もう見ているに耐えない。対空砲火も段々小さくなる。遂には、遣られっ放しになってしまった。グラマンの攻撃が終わって見ると、艦橋の根元から、発生した火災は上へ上へと燃え上がっている。艦橋付近の機銃座のものであろう弾薬が、熱でパンパン弾けている。又と見るのも、無残な姿である。其の時見れば艦橋のてっぺんから後ろのマストに張られた、通信アンテナを伝って一人の兵が逃れている。  ハラハラしながら只、頑張れ、頑張れ、と祈る事しか出来ない。其の日一晩中、弾薬の弾ける音は、続いた。 明くる日、見れば日向は、上部甲板まで水につかり、沈んでいる。

海底に着いて、これ以上沈まない状態(着低)になっている。其の日、日向から大勢の負傷者が大浦に運ばれて来た。火傷をした人、全身血だらけの人、大浦の衛生科はてんてこ舞ひである。  昨日のアンテナを伝って逃れた人はうまく、助かったらしい。日向は、満潮になると上甲板を波が洗う。これではあらゆる機能は全滅である。乗員は艦を捨て、大浦に上陸せられた。その方々の苦しみはどんなもので、有ったか。私には想像も着かない。聞けば、艦橋に居た艦長以下多数の方が戦死された様子。艦さえ動けば回避運動も出来、此れほどの被害は無かっただろうに。

まさに、初戦の真珠湾を逆にやられた、ようなものだ。

26   航空戦艦伊勢訪問

日向がやられて、2,3、日経った頃であったと思う。伊勢から大浦の司令部通信科に転勤してきた上等兵曹が、今から伊勢に行く。ついてくるか?  と言われ行きますと喜んで返事をした。よし連れて行ってやる。そのかわり、帰りは荷物を持たせるぞ。  同年兵の広田と上曹と3人で大浦の営門を自転車で出発。一路呉軍港に向かって急いだ。   やがて音頭の瀬戸まで行ったところ上曹は瀬戸の通船に乗る様子がない。  私たちは怪訝な顔をしていたら、こっちこっちと手招き?通船場から500メートルくらい江田島寄りに伊勢が錨を下ろしているではないか。

それも岸壁から50メートルもない位置に、びっくり仰天。着低した日向の姉妹艦であるから同一寸法の筈なのに、伊勢の方が大きく見える。岸壁から、杉丸太を並べ、ワイヤーで繋ぎ、歩いて渡れる様になっている。自転車を道路に放置、杉丸太の上を歩いて伊勢に乗艦した。上曹は勝手知ったる艦内、すいすいと、通信室まで連れていってくださった。入って見て、うわー此れは狭い。室内は無線機だらけ、作戦中のご苦労が思いやられる。 でも此処は受信室。送信室は放れたところにあるとの事。そう言えば、

大浦突撃隊でも送信所は離れている。何故ですか?  早速質問、上曹は、送信所は、高周波で一杯になり、受信所とは区別しなければ、送受信はできないとの事。一つ賢くなった様な気がする。受信所は低周波なんだなと、気がついた。

上曹はなにやら、小さな物を木の箱に詰められ、さー帰ろうかと立ち上がった、瞬間、空襲警報、総員配置につけ。 つずけて、対空戦闘用意、舷門閉鎖、各区防水扉閉鎖、撃ち方用意、撃ち方始め、先ず高格砲の発射音、艦が動く、様な気がする。でも2.3発撃っただけだ。  軍艦に乗って見て始めての経験。でも、いま私たちはお客さんだ、早く帰りたい。でも、各所の扉が閉められ出ることは出来ない。此れで終わりか。覚悟を決める。

しばし、何事もなく音も聞こえない。やがて対空戦闘終わり用具収め。の号令、私は正直なとこ、ほっとした。お客さんで、この世におさらばは、頂けない。

ほうほうの呈で下艦、自転車で帰路についた。

来るとき上曹は荷物を持たせると、言われたがなんですか?と聞いた。

上曹はあれは、冗談だ、実はこれなんだが、持ってみるか?  持ってみます、持ってみると、以外に軽い、何ですかと聞いてみる。 この中には、真空管が5本入っている。大浦に無く困っているとの事で、伊勢まで貰いに行ったのだ。  どうだ重いだろう! 上曹も人がわるいや。  3人で大笑い。実はお前たちに伊勢を見せてやりたかったのだ。  だが空襲警報と対空戦闘のおまけが付いて、楽しかっただろう?  寺尾上水は楽しかった筈だがなー。  なにやら意味有りそうな言葉。えッ。何でですか?  其のとき、上曹曰く、お前はこの前、日向がやられた時、あの空襲下、厠に行ったらしいな?はい行きましたと答えた。大か小か?

大ですと即座に答えた。 そうしたら、大浦の下士官仲間では、お前の事を、馬鹿か、、度胸が有るのか?さっぱり判らん、あの空襲下、炸裂弾の破片が雨の様に落ちる中、用をたすとは、何者だ、あいつは。将来大物になるかも知れんぞ、と持ちきりなんだぞーと言われた。  私は行きたいから行っただけです。

と言ったら、其れなら馬鹿だ。  お前の近くに破片は落ちなかったか?  落ちました、トタン屋根にバラバラと穴が開き、そこら中火薬の臭いで、一杯でした。と話したところ、うーんそれなら度胸だ。まったくお前は、判らんやつだ。 若し、破片に当たって死んだらどうする。 帝国海軍始まって以来の死亡事故になる。

海軍が付けてくれる、戒名は、糞垂れ居士になるぞ。 ワッハハハー

以後、私の綽名は、糞垂れ居士に成ってしまった。  事実、機銃座で1人、頭の上に当たり、顎まで抜け即死した兵が居たらしい。

27    入湯上陸

呉市が空襲で、焼け野が原に成ったのは何月であったか良く覚えていないが、15分の1即ち15日に1度の入湯上陸(外出)が許される。海軍では、何故入湯上陸と言うか、其れは、軍艦に乗ると風呂は無い。真水は海軍では貴重品なのだ。飲み水さえままならぬ状態で有るから上陸した時に風呂に入る。そういう意味で入湯上陸と言う。

上陸して見ると、なるほど家は1軒も無い。只焼けの原である。幸いな事に、呉鎮守府の集会所は無事で有ったので宿泊する事が出来た。其の日私の軍装は洗いざらしの、おまけに、継ぎのあるみすぼらしい、第3種軍装であった。一緒に上陸した主計科の上曹が私を彼方此方と連れて歩いてくれ、集会所で一泊した。 上曹は、明日大浦に帰ったら、俺の所え来い。お前達の兵舎の真裏にある、主計科防空壕にいる。間違い無く来るんだぞ。と言って呉れた。 翌日昼頃其の防空壕に行って見た。昨日の上曹は、機嫌よく、おお来たか、お前身長はいくら位ある? はい162位ですと、答えた。 上曹は此処にお前の為に3種軍装を用意した。今すぐ着替えろ。昨日の貴様の軍装では海軍の恥である。洗い晒しは、よいが、継ぎはぎは良くない。 海軍は、スマートさと、毅然とした、清潔感が無くてはならぬ。 言葉はきついが、情けのある言葉であった。

思えば海兵団で支給されてから10ヶ月もの間、1着の軍装を着て来たのだから継ぎはぎにも成ろうと言うものだ。 私は只有難うございますと丁寧に頭を下げた。

此れは、廃棄処分にするから心配するな。帰って良し。 最敬礼をして司令部に戻った。あの兵曹の名前は記憶に無いが確かに望月上曹と記憶している。  其れから、あの上曹は何かと面倒を見て下さり今でも心の底に思い出として残っている。同年兵の手前、新品の軍装は気が引けて事業服で毎日を送る事にした。

28    原始爆弾

そうこうしている内に、8月を向かえた。防暑服を着て、下着なしでも汗だくの毎日である。

8月6日。其の日は昼番の当直であったので、庁舎の1階にある電話室に勤務していた。

しっかりとした記憶では無いが何かの用で2階の庶務室に行った。とたんに庁舎が異常に揺さぶられた。  ビックリして、皆が目と耳を押さえ伏せた。 衝撃は1度だけ。

何だ今のは。長官を始め参謀や指令の方も、窓の所で山の方を見つめておられた。

10分も経過したであろうか、誰かが、あれは何だ。と、指差している。見れば大浦突撃隊の裏山の上を、むくむくと入道雲の様な形をしたものが、上昇を続けて居るではないか。何か、不気味な雲で黒くなったり白くなったり、果ては赤黒くなったり、今まで見た事の無い異様なものであった。 電話室に戻り、しばらくすると、呉鎮守府より電話で、先ほど、広島に原因不明の爆発が有り広島の町は全滅の模様。原因等調査中。との通達。

急いで、清書、当直士官に報告。次々と電話が有るものと思って居たがそれっきり連絡は無い。 夕方近くになって、司令部の者は、明日転勤である。転勤の用意をする様に、と命令を受けた。

我々下っ端は、前持って連絡される様な事は無い。転勤用意と言っても、衣嚢一つで有るから大した面倒な事ではない。

29   転勤   

8月7日、総員起こしで身支度を整え衣嚢を担ぎ庁舎の前に整列。司令部の人間が此れだけ居るとは50人位で有っただろうか。全員桟橋に移動。見ると、海軍が誇る、上陸用舟艇が横付けしている。私達はどこえ転勤するのやら、さっぱり判らない。  だが司令部では、半月も前から進んで居たらしい。私達下っ端が知らないだけである。

指令長官の身の回りを世話している兵長も知らなかったらしい。軍隊と言うものは、何時いかなる時にでも、出動、若しくは、転勤の命令が有っても、即、従事できる体制にある。誠に良く出来た訓練体制と言うべきであろう。やがて舟艇に乗艇、艇は運行を開始した。 其の日は特に暑い日で、舟艇の、側壁は高く風も入って来ない、1時間。いや2時間も立った様な気がした頃、もう汗で極限状態になろうとした頃、両舷半速、後進用意、後進。面舵一杯。エンジン停止。防舷物出せ--舫い綱投げ-- 次々と号令が懸かる。 艇は桟橋に到着したらしい。衣嚢を担ぎ 上陸して見ると、なんと其処は、山陽本線、宮島口、駅前桟橋ではないか。駅舎に入りやっと人心地が着いた。汗を拭い一息入れた頃、駅舎の外に出た誰かが、あれを見よ。広島が燃えている。其の声に釣られ、出て見ると、広島は、一面の煙に包まれている。  其の時、兵科の少尉であったと記憶しているが、昨日の音と入道雲は、アメリカの新型の爆弾らしい。只の一発で広島は全滅と聞いた。 我々は今日、呉から列車で移動の予定で有ったが、広島がやられたので、急遽、舟艇でこの宮島口迄来た訳だ。  と、説明を受けた。  待つ事。2,3時間、宮島口発、下関行きの列車に乗車。 今現在と違い、冷房などある訳は無い。窓を全開、風を入れる、やっと快的になってきた。出発時、主計科で作って呉れた握り飯を食べ、後は何処へ行くのか知らないが、弁当が一つと言う事は夕方までには着くで有ろうと、居眠りとしゃれこんだ。2時間も走ったであろうか、光という駅に到着,全員下車。 駅舎を出ると3台のトラックが、待っていた。3台のトラックに全員分乗が終り、発進した。30分も走った頃、光海軍工廠の隣にある、見習工員養成所と言う看板のある建物の前に到着。早速兵員室の、割り当て、6名が寝起き出来る部屋に入る事になった。司令部庁舎、兵員室、食堂、一応司令部としての機能は果たせる様な建物である。夕食後、司令部先任下士官から、話があり、今日から第二特攻戦隊司令部は平生基地に近いこの地に移る事に成った。今まで居た、倉橋島の基地は第十特攻戦隊が受け持ち、特殊潜航艇の司令部となり、我々第二特攻戦隊は、平生を基地とする回天特攻の司令部となったのである。 と伝達された。回天とは、魚雷の中に人間が搭乗して、運行。敵艦に体当たりする。 言わば、人間魚雷の事である。平生基地においての訓練は、予科練の、甲飛、乙飛、の兵で構成されているらしい。私達は受けられ無いのか聞いてみた。 所が、お前達の様な無証の者は、訓練は受けられない。

と、来た。希望までして来たのに何と言う事だ。 聞く所によると、人間魚雷の操縦装置は、海軍一式陸上攻撃機の、操縦装置をそのまま取り入れてあるらしい。

一式陸攻となると、飛行科の専門である。  飛行技術を体験、それなりの錬度を持った者でないと、当然操縦出来る訳がない。

私達は、大竹海兵団で電話兵として教えを受けただけである。  予科練の、甲飛、乙飛、の下士官、及び、学徒動員で入って来た予備士官達の、独段場である。14歳や15歳では使い者にならないと言うのか。 俺達にも、訓練してほしい。実に残念だ。

30   光海軍工廠の爆撃

光に転勤して1週間めの、8月14日、朝10時頃、警戒警報無し、突然空襲警報、驚いて空を見るともう既にB29が進入している。 其れも500か600メ−トル位の高さだ。退避急げの号令。急いで退避しょうと外に出たとたん、爆撃が始まった。目標は海軍工廠だ。  B29から爆弾が落ちるのが目に見える。畜生。こんな低空で。高射砲は今頃になって撃ち始めた。

おそい。しかも照準が合っていない。1000メ−トル位の所で信管爆発している。このくそたれ砲術長、500位に信管を切れ、誰かが大きな声で怒鳴っている。  私は小銃でも届くと思い司令部横に、小銃が有ったのを思い出し走って行きかけたが、そうだ、弾の在りかを知っていない。退避するより仕方が無い。一目散に遠くの山目掛けて逃げた。逃げながら空を見上げれば、まだ信管が会っていない。

其の事は、海兵団で班長が砲術科の高角砲出身であったので良く聞かされて居たからだ。 0に信管を切ると砲の出口で爆発する。 信管の切り方一つで、爆発高度が決まる。工廠を取り巻く高射砲陣地からは、さかんに撃ち上げて居るが一向に効果が無い。

敵機は悠々と爆撃をつずけて居る。私の様な若年兵でも信管の操作が間違っていると言う事が判るのに、何故砲員にはわからないのか。 おそらく、初めて撃つからに、相違ない。もっと落ち着いて高度目測をするべきだ。  とうとう一発の弾も効果なく敵機は引き上げてしまった。  急いで司令部に。 !!良かった。庁舎も其の横の防空壕電信室も皆無事だ。爆風で屋根の一部が壊れた程度らしい。 庶務室に行った所、爆風で、もう滅茶苦茶だ。こうなると、下士官も兵も、先任も後任もない。皆で後片付けに追われた。やっとの思いで片付けを終わった頃には、もう夕方になっていた。 それにしても、私より下級の兵が二人いた筈なのに、姿がない。食卓番をしなければ、昼食抜きだから皆腹が空いている。

食堂に行ってみると、あの下級兵二人がすでに配膳を終わっていた。

さすが、応召で入って来た老兵である。年は私達より15歳も上だけに要領が良い。

その要領の良さは、私達より15年の差があるのだ。 海軍の笑い話に、軍人勅諭の6番目は、要領を本分とすべし。と言うのが有ったのを、思い出、本当にそうだな--とおもった。  感謝しながら、食事を取った。 人間色々な職を持っているが、その職がお互いに助け合って居る事、当たり前の事ではあるが、其の時、感謝の気持ちをどう表すか。昭和初期の人間は、最も、へたくそである。有難うと言う言葉さえ出ない馬鹿教育を受けているからだ。上の者は下の者に頭を下げる事はしなくても良い。階級制度は固定していた。  でも、私は彼らに、有難う、と言った。下級兵は上級兵より、有難うと言われたのは、初めてです、と言って逆に感謝してくれた。軍隊は素直に其れを認めない習慣がある。   此れが大浦突撃隊であったなら、彼らはひどい、罰直を受けたかもしれない。

幸い、光に移動してからは、司令部だけなので、甲板下士官は置かない事になり、楽と言えば楽であるが、それなりに、各々の責任を真っ当うしなくては、おのれに、恥じる事になる。  指令長官の入浴が終わったら、兵長が知らせて呉れる。次々と3人の高官の肩を揉む、誰にも出来ない私の、務めだ。 終わって夜勤に着く。

でも、今日のB29は頭に来る。あんな低空で爆撃するとは。なめて居やがる。 夜勤も終わり、兵舎に帰り眠りに着いた。

31   終戦

8月15日、何時もと変わらぬ朝を迎えた。0500総員起こし、隣の海軍工廠を見ると、まだ燃えている。

昨日の朝まで列を組み、大きく手を振り行進して、出勤していた、女子逓信隊の姿は無い。昨日の爆撃でやられたのかも。 海軍体操、食事、通信科防空壕電話交換室に行く。何時だったか思い出せないが、総員庁舎前に、集合。の号令で何か、重大な話かと思い、急いで集合した。  ガーガ−と鳴るラジオを聞かされた。

何がなんだか判らず、皆でがやがや言って居た所。指令長官から、戦争の終わった事を知らされた。    通信科だけで防空壕前に集合、改めて詳しく、説明があった。日本は戦争に負けた。其れを聞いた皆はあっけに取られ、次に愕然とした。

通信科暗号係りの兵曹長が電文を持ち、この戦争は、今日で終わった。

日本は連合国に負けた。えッ負けた?何故だ。神風は吹かなかったのか。少年兵ながら軍人精神は旺盛である。 遣られるばかりが、能ではない。何か今することは無いのか。 なにもかも力が抜けたような1日であった。平生の特攻員達の中には、相当に、暴れた隊員も有ったらしい。さ--そうなると、忙しいのは、通信科だけである。暗号は、もう必要ない。平文でどんどん送られてくる。暗号長が清書することもない。 其のままの電文を長官を始め格幕僚に届ける.悲痛な顔で、電文を読まれるお顔を見るのが辛い。

とうとう、そうなったか、と、一人言の様につぶやかれる、長官。

私達も、海軍に入り、将来を夢見て、叩かれ乍ら、体を鍛え精神を鍛えて来たのは、一体何だったのか。1日誰も口を閉じ、最後の巡検を迎えた。 

司令部の信号科兵長の吹奏する巡検ラッパ。悲哀と、哀愁を誘い、泪を流し乍ら聞いた。実に切々と伝わる、名調子。誰も彼も泪を流しながら聞き入っている。もう2度とこの巡検ラッパは聞くことは無い。今も其の光景が、涙と供に浮かび上がる。

32    復員、帰郷

翌、16日より機密書類の焼却、銃の破壊、丸薬の投棄、色々な、作業をしながら25日を向かえた。 呉鎮守府からの電文。特攻隊はただちに解散、復員せよ。

家に帰れる事は嬉しい。だが負けたと言う事は悔しい。どの顔下げて帰れば良いのか。

8月26日、一階級特進、海軍水兵長を命ず。即、予備役編入、帰郷を命ぜられた。

8月27日、光基地司令部を出発する事になり、指令長官を始め、各幕僚にも、別れの挨拶をし、主計科より、慰労金としてなにがしかの金を受け取り、入団以来貯まった貯金通帳、海軍における履歴書、等を受けとり、トラックで光駅まで送って頂いた。

終戦になって乗車券の統制が解除に成ったのか列車は超満員である。私は乗る所が無く、仕方なく、機関車の前に衣嚢を括りつけ、其の上に腰掛けて、小郡までの間、辛抱した。でも隣に乗車した兵は復員兵は切符無料とは言え、此れは一寸酷いよ、と言ってぼやいていた。私は熱い時此処は、落ちないように注意していれば、前方から、吹付ける風により、特等席と思っていた。  光から小郡まで1時間半、あの懐かしい思い出の小郡である。山口線は、10分の待ち合わせで乗車。石見益田に向かって発車した。

今度は始発駅で有るのでゆっくり、と椅子に腰を下ろす事が出来た。

途中で列車は何度も止まり、蒸気の圧力を上げながら、5時間も掛けてやっと石見益田に到着、

お客さんの一部の方はぶつぶつ言って居た様だが私は郷里に帰るのが嬉しくて、イライラする事は無かった。お金は十分ある。1年と3ヶ月の海軍生活の中の貯金が95円、それに慰労金として、支給された金が600円、一寸した金持ちだ。

当時、1等旅館でも5円位だったと思う。海軍に志願した時泊まった松屋旅館迄、衣嚢を担ぎ2キロの道を急いだ。松屋に到着一夜の宿をお願いした。女将さんは、食べさせるものが無いが、泊まるだけなら泊めて上げると言って呉れ、私の顔を見、足の先から頭まで見て、あんた、寺尾さんじゃないの? よく生きて帰られたな--と言って、懐かしそうに、して呉れた。女将さんは匹見の出身なので、覚えていて呉れたらしく、わざわざ私を部屋まで案内してくれた。その晩は戦争の話で持ちきりであった。私は光基地で、帰りに支給せられた、水を入れかき混ぜれば、餅になる缶詰めを明け話にふけった。

聞いてみると、電話は通じるらしい。海軍で使っていた様なダイヤル式ではない。 交換手に、何処何処の何番と、言って繋いで貰う、神武天皇も此れは古い、と言わせる様な代物である。1時間も待ってやっと繋がった。    大黒屋と言う店の、ご主人に、若し良い便が有ったなら、明日帰ると、伝えて欲しいと、お願いして眠った。

一夜が明け、いよいよ郷里に帰る事が出来る。踊る様な気持ちで匹見行きのバス停にいく。8時出発のバスが中々来ない、待つほどに、ボロボロのトラックが遣って来た。もちろん木炭車である。今なら40ぷんで走る道を3時間掛けてやっと落合についた。

トラックから立ち上がり背伸びして見ると、何と父母兄弟が皆迎えに来ているではないか。  聞けば、大黒屋のご主人が、4キロもある道のりを、わざわざ歩いて知らせて頂いたらしい。丁寧にお礼を言い感謝の言葉をのべた。  途中会う人が皆良く帰って来たと言って呉れたが、私は敗残兵である。肩身が狭い。

父と母は泪を浮かべ、喜んでくれた。 母の喜び様は涙だけで、言葉には成らなかった。皆生きて帰れるなんて、考えも及ばなかった時代であったからだ。  祖母は家に居て、仏壇の前で私をまっていたらしい。

なんと家に帰ると家族はもちろん、隣近所の人まで来ているではないか。

皆は良かった、死なずに帰れて、と何か意味慎重な言葉にきこえる。 よくよく聞いてみるとあの日、5月20日出征した者は全員戦死の公報が有ったそうだ。わたしだけが生きて帰れたらしい。なんと1年の内にこんなにも、身近に戦死者がいたのだ。

戦死者の家族の事を思うと、居たたまれない気持ちになる。しかも生きて帰れたのは私だけなのだ。

先ず私は夏にも関わらず、第1種軍装に着替え、仏壇の前に座り、先祖の加護で帰ることの出来た事を感謝し報告した。  さあ、其れからが大変。部落の人が次々と来られお祝いの言葉をいただいた。    無事に帰りましたとは報告するものの、死んでいった、先輩達に、なんとお詫びすれば良いのか、私の心は日と供に落ち込んでしまった。

戦争と言うものは実に、悲惨なものである。 わが身を犠牲にして、国を、そして身内を守る其れが、名誉と、教えられたのでは無かったのか、疑問は、疑問を呼び心の落ち着くまで長い、長い、時間が懸かった。

しかし、私は年を取るにつれ、その当時の自分に誇りを感じる様に成ってきた。

33    現在の日本と私の考え

あの戦争を頭から否定する、今時の若者たち、わたしはその度に思う。この若者たち、もう少し、あの時代の事を研究、学習せよと。    其れは、わが国が侵略によって、起こした戦争と思って居るから、そうなるのだ。 

 もう少し前の明治の初期、アジアは、どんな、状態だったか。 我が、大英帝国に太陽は没さず。と大言豪語していた英国。なるほどインド、オーストラリア、アヘン戦争をわざと、仕掛け、100年の領有を宣言した香港。

今のベトナムは仏領インドシナ、アメリカはフリッピン。ドイツは山東半島と南洋群島。

これは、侵略ではないとでも言うのか。ドイツが東洋に進出したのをきっかけに、起きた第1次世界大戦。当時日本は連合軍として戦い、ドイツに戦勝、山東半島と南洋群島を委任統冶として獲得したが、山東半島は青島だけを残し、後全部を清国にかえしている。 南洋群島はそのまま統治し第2次世界大戦まで領有していた。だがこの南洋群島に、一つ問題があった。 

 グアム島だけは、アメリカの横槍で、日本の統治から外しアメリカの領土と宣言した。  いかに、白人達が東洋の国々を侵略していたか、お分かりであろう。明治27,8年の日清戦争は清国が朝鮮に手を出しこれを、領有化しようとしてきたのが原因である。時の朝鮮は非常に乱れて居り、とても清国に勝てる筈もなかったのが実情である。    日本としても朝鮮を清国の自由にせられては、日本の国防が不安定になる。いずれ日本に手を出してくるのは一目瞭然である。 そのため、始まったのが日清の戦いである。この戦いに勝利して得た遼東半島は、ロシア、ドイツ、フランスの3国干渉で已む無く清国に帰している。その帰した、遼東半島をロシアが、租借し旅順に軍港を築き始めたのが、日露戦争のはじまりなのである。其の頃、イギリスはロシアが東洋に進出すればいずれはロシアと上手くいく訳が無い。イギリスは、日本と同盟を結びロシアを牽制し始めたのである。  日本も自国の安全の為、戦わざるを、得なくなって来た。イギリスはどちらが勝とうが,負け様が関係は無い、日、露、両国供、弱体化する、これがイギリスの本音であった事は、間違い無い、

結果、日本は快勝したと思って居る人も有るだろうが、実はもう3日も続いたら日本は、破産する状態であったと、言う。 辛うじて勝ったと言うのが、適切な言葉で有ろう。

戦勝に依って得た旧満州の支配権がわが国の、発展に大きく作用した事は間違いない。  そうなって、満州国を独立させたのが満州事変。こうなってくると、狡猾な米英に取って面白い訳が無い。  手を変え、品を変え日本を経済封鎖と言う形で攻め始めた。 次第に日本は追い詰められ、最後にはハルノートと、言われる宣戦布告共、取れる要求を突きつけて来た。 当時日本は、東洋から侵略者を、追い出し、東洋人は、東洋人で、独立し、大東亜共栄圏を築く事を発想していた。 資源の無い日本は東洋圏より、資源を買い取り、お互いの共栄を目的としたのである。  いままで、アジアより、甘い汁を吸い続けた西欧諸国とは、表裏の差のある事を理解すべきである。

ハルノートに依り、やむなく米英に対し戦いを挑んだ。此れが大2次世界大戦。いわゆる大東亜戦争又は太平洋戦争である。  日本は戦いの結果武力では、完敗した。だがアジアの独立の、基盤は成功した。 

 あの、シンガポールでの英国の惨敗、時の将軍。

パーシバル中将は曰く、白人の権威、地に落ちたり。二度と此れを取り返す事は出来ないであろう。と。 現地人の目の前で有色人種の日本人にしてやられたのだ。白色人種を優位とし、有色人種を奴隷の様に思っていた彼らにとって大きな誤算となったのだ。

過去の自分達の侵略は棚に上げ、日本だけを侵略国と決めつけ、多くの戦犯を、でっち上げたのが、東京裁判である。彼らは恥を知るべきであり、子供が恨みを晴らす様なやり方には、大きな義憤を感じている。

戦勝国であるインドのパール判事の判決文こそ、真の判決である。 

 あの東京裁判の張本人の、マッカーサーも、朝鮮戦争で、時の大統領、トルーマンに、東京裁判は間違いであったと述懐している。自分が其の立場になって初めて気が付いたらしい。

満州に居るソ連を叩かないと、この戦争には勝てないと進言し、マッカーサーは更迭された。その後の戦局で原爆使用も止むなしと、アメリカの決断により、朝鮮戦争は38度線で決着した。 マッカーサーは日本の軍隊を解散させた事を、大失敗だったと、其の時話している。

其れは、取りも直さず、目の前の事のみで、判断を下した、証拠である。  若者よ。そんな姑息な人間に成るな。 大局を見て判断し結論をだすのだ。日本が将来に向け世界の指導者的立場を取れるように、成らなくてはならない。

 

何よりも、歴史が全てを物語って居ると言う事を忘れては成らない。

終わり

   

   追記

 海兵団を1番で卒業した向井は、呉警備隊に配属され、大竹を1番で卒業した事を 理由に異常なまでの制裁を受け、半分は自殺とさえ言われている。 お前は今から5年 も立てば士官だ。今のうちに気合を入れてやる。と。人が3発やられる時は10発、人が 叩かれない時でも10発、歩くのもままならなかったらしい。とうとう空襲で兵舎が焼ける時 出てこなかったらしい。其れとも動け無かったのかも知れない。 そうであったとしたら、兵の妬みは、すざまじい、としか言う事ができない

軍人精神とは

 軍人精神とは二つに分けて考えた方が良い。 先ず軍人とは、戦闘要員である。

精神とは死を恐れず闘う事を指す。  海軍では、罰直制度を以って、精神の発芽を促す。  其の罰直にも、二種類の要素が含まれている。

1、  痛い目に合わせ、怯えから、反発の精神を芽生えさせる。

2、  辛い目に合わせ、体力を付けさせる。

この二つを同時に行うのが、海軍伝統の罰直制度である。

いざ戦闘となった時に、怯えて逃げる様では、軍人とは言えない。

どんな苦境に有ろうとも、持てる力を十二分に発揮し、全力を挙げて闘う事が、おのれの使命である事を自覚する。 これぞ海軍魂。 陸軍とは、根本的に違う。

海軍では、各課の兵員が力を合わせ、艦を運用する。  戦闘で艦が、沈没の憂き目に逢ったとしても、海の上を、歩いて避難する事は出来ない。 故に我が持てる力の全力を発揮する必要がある。 経験の無い人には、判る訳も無いと思うが、背水の陣。  此れが、海軍の、軍人精神なのだ。

  

特攻隊

特攻隊とは、誰もが知る様に、命を捨てて、敵の艦船、若しくは基地に攻撃を懸け、体当たり自爆する事を、指す事は言うまでもない。 だがその特攻隊が、何種類有ったか知る人は余り居ないと思う。

ましてや今現在の若者には知る由も無いであろう。 私は其の時代に生まれ、徹底した教育を受け純粋に其れを信じ、筋を通してきた人間として書き残す事にした。

幼い時から大きく成ったら何になる?と、聞かれると、兵隊さんに成る、と、答えた時代だった。

若干14歳にして海軍特別年少兵に採用され

1年間の特殊教育を受けた後、特攻隊の基地員として、勤務した実績を元に本文をつずる事にした。先ず特攻隊の種類を挙げて見よう。

1) 空よりの特攻(航空機に拠るもの)

2) 水中の特攻(特殊潜航艇に拠る者)

3) 水中に待機する特攻(伏竜)

4) 小型船舶に拠る特攻(震洋)

5) 人間の操縦する魚雷(回天)

以上の5種類の特攻隊が存在した。

言う迄もなく、其の訓練中には当然の如く、

犠牲、殉職が、相次いだ事は言うまでもない。

私は1年に及ぶ、特別年少兵教程を、大竹海兵団での教育を終え、昭和2047日、p基地と言う、特攻基地に配属された。

所は、呉軍港に近隣する、倉橋島の大浦突撃隊であった。

ハワイ攻撃の九軍神の出身地でもあった。

一番最初に目に入ったものは、 甲型、乙型、丙型、丁型の各特殊潜航艇である。

私は通信科、暗号班に配属され、暗号部要員として、真受、傍受、に関わらず、、暗号解読に携わった。、

其の過程で、幾種の特攻隊が存在するか知った訳である。  以下、其の、実態に付いて、陳べる事にする。順序的に書いて見よう。

前述の (1)航空機に拠る物、言うまでもなく、250kの爆弾を搭載、航空機もろとも、体当たり自爆、敵の艦船を破壊、撃沈する事を目的としたものである。  当初の頃は、最優秀機をもって、攻撃した様であるが、終局時には、練習機の様な劣弱な航空機を使用した様である。 従って目的地までの航続力にも乏しく、途中にて不時着散華した者が多かった事を知って貰いたいと思う。 其の時の操縦員の無念さを思えば断腸の限りと言う外は無い。

2)水中特攻とは、初戦の真珠湾において

行われた、特殊潜航艇が此れを代表する。

終戦迄3回の出撃(ハワイ、ウルシー・マダカスカル)   が挙げられるが、余り効果が、無かった様である。

3)伏竜特攻隊とは、敵の上陸用舟艇が来ると思はれる海中に潜水、待機し4メートル程の棒の先に爆薬を仕掛け、水面下より突き上げ爆破、沈没させる目的を持って編成されたもので、此れを伏竜特攻隊と呼称していた。相模湾に基地がおかれ特訓中で有ったが、其の時代の潜水具には欠陥も多く、特攻隊の中で最も多くの、殉職者を出している。使用した例は無い。

4)小型舟艇に依る特攻。震洋特別攻撃隊と、呼称されていた。ベニヤ板(合板)のボートに自動車エンジンを搭載、前部に1.5

トンものTNT爆薬を装備し、着発信管にて

爆発、自爆する。

5)魚雷による攻撃。  九三式酸素魚雷を、改装、人間が魚雷を操縦し、敵艦船に

体当たりするものを言う。其の操縦装置は

海軍一式陸上攻撃機の操縦装置を取れいれて居たと言う。

以上の五種が、特別攻撃隊と言われた部隊で有るがこの中で(5)番目の人間魚雷はアメリカ海軍が最も恐怖として恐れられたと言う。

なぜなら、人間に依る操縦の為、必中で有った為だ。潜水艦より隠密裏に発射され進行を一時停止、潜望鏡にて敵艦を捕捉、進路を確定、100%の命中率であったからだ。

 其の次の特攻は航空機によるものが彼等の、恐怖であった様だ。 此れに対応し彼等は対空火力を増強し、我が航空機は、敵艦に体当たりする事無く撃墜され目的を達成する事無く散華した様である。

今、21世紀に成って、イラクに於けるテロ活動と、比較して見ようではないか!!

自爆に付いては、同様なものと考えて良いで有ろうが、一つだけ違う処がある。

イラクの場合、宗教が根本にある。

敗れたとは言え日本人には、アジアに於ける、西欧諸国の侵略を開放、自国日本の財産と近親の命を守ろうとした、愛がある。

兎角宗教が絡むと収集が付かなくなる。

今のイラクで起こっている自爆テロ、すべ

て宗教に源がある。  現世には数多くの

宗教があるが、宗教と宗教が妥協した例は

無い。 私は、幸か不幸か、此の日本に生まれ、其の極限的人生を歩んだ訳であるが、いまだかって、自分の人生を、駄目人間と、思った事はない。

命と言うものが、どれほど大切なものであるか、そして尊いものであるか、兵役に携わった、者でないと判らないと思う。

終わり