プロローグ

完熟トマトのハヤシライスが食べれません・・・
母が好きだったから・・・

柔軟材フワァーフワァーの空の容器が捨てられません・・・

母が最後に買ってくれたから・・・

若水には行けません・・・母と最後に食事をしたレストランだから・・・

今日もNHKでのど自慢を母が生きていたときと同じ様に同じ時間にしている・・・

だけど母はいない・・・この世界の何処にも・・・いない・・・

もう1年になろうとしています。母の好きな花が色とりどりに咲いている・・・、

母の亡くなった日

コスモスが咲き乱れていた・・・母は亡くなる日まで自分で決めていたんだろうか・・・


第一章

母は私に綺麗にしろと化粧品を買ってくれた・・・

母は私に身体だけは大事にと高価なニンニク玉の薬を買ってくれた・・・

母は私にお金あるんか・・・もうちょつといい服を買いとおこずかいをくれた・・・

母は私に大変だろうと野菜や料理を作って持たせてくれた・・

母は私に語りつせないほどの愛情をくれた、そんな母の無償の愛に私はどれだけ答えられ

たのだろう・・・

母が最後に作った胡瓜のなら漬け、まだ有ります・・・

一年がたとうとしている今、母の声が聞きたい・・・

時々私の耳の奥で、○○ちゃん、○○ちゃんと母の声が響きます・・「○○ちゃん」・・

母の姿を見たい・・・私を限りない深い愛で包んでくれた母に会いたい・・・


第二章

お母ちゃん最後の言葉は「ごめんな」・・・でした。

「またビール飲みに行ったらええやん」・・・でした。

最後はみんな見守る中で大きく深呼吸をして亡くなった・・・ほんとに安らかな死だった、

葬式の日の朝ドシャブリの大雨だった・・・まるで母が最後におお泣きしているかのようだった
でも告別式の時には今までの雨が嘘の様に秋の青空・・・

その中を、バスに乗り火葬場に向かった・・・

あたりいちめんコスモスの花・・・花・・・花・・・バスは走った・・・

あなたの骨を見た時、やっとあきらめがついた・・・

あなたが亡くなったことを認めた・・・

でも、私の心の中に母は生きつづける・・・いつまでも・・・

「お母ちゃん・・」


第三章
H12年の年賀状を最後に母からの年賀状は来ない・・・

差出人がそれまでは弟の名前だったのに・・・

最後の年賀状だけ何故か母の名前になっていた・・・

どんな思いで書いたんだろう・・・

自分の死が近い事を母は知っていた・・・

母は自分の病気を知っていた・・・【私が告知した】・・・

母の命に限りがあると知ったとき1日・・・1日・・・を大切に有意義に生きて【生きて】欲しかったから・・・【告知した】・・・

母はどんな思いだったのかこれで良かったのか・・・母はその時の事を後で「頭が真っ白になった」と言った・・・そして治療には前向きだった・・・

辛い治療も懸命に耐えた・・・そしてある日専門の病院へ行きたいと言った・・・

私は母が望むなら何処にでも連れて行った・・・

明石の成人病センターも尼崎の労災病院も答えは同じだった「近くの病院で・・・」

労災病院には泌尿器の治療で2週間ほど入院した・・・

退院の日帰りにインターで皆でたこ焼きをたべた・・・

母は「美味しい」・・「美味しい」・・・と何度もいった・・・

帰ってからは○○病院の○○先生にと母は医師も自分で決めた・・・

 

第四章

労災病院に母が入院した日私の前では涙を見せなかった母が・・・

私の友人(労災HPのNsKさん)の顔を見たとたん泣いた・・・と後でKさんに聞いた・・・

そして堺のおじさんおばさんの顔を見たとたん泣いた・・・

でも私の前では1回も泣かなかった・・・

それは母の私への思いやりだったのだろうか・・・

労災病院に入院中、神戸の友人の近所で買った金山寺味噌を
「母は美味しかったからまた買ってきて」と言った。
そして一つは堺の叔母に上げた・・・

でもその味噌は露店で買ったものだつたので二回目に行ったときにはなかった・・・

それと労災HPのすぐ横にある果物屋で買った文旦も美味しそうに食べた・・・

 

第五章

母が亡くなる前、若水の「花かご」母と最後に、外食で食べたメニュウー

母は「美味しいな」といいながら、あまり食べませんでした・・・

○○ちゃん、これ食べと私に、勧めました。

母が亡くなり、気持ちが落ち着いたら一度は、食べに行こうと思っていたのに、

行けないままに3年が過ぎ、若水が閉店して行けなくなった。

母との思い出の場所が、一つ無くなりました・・・

優しい母でした・・・厳しい母でした・・・強い母でした・・・

手先の器用な母でした・・・料理の上手な母でした・・・

そんな母に反抗して家出をし母を悲しませた事もありました・・・

私も母になりましたが、母を追い越すことは出来ません・・・

きっと一生追い越すことは出来ない
時々無性に呼んでみたくなります「お母ちゃん」と・・・
そして呼ばれたい「○○ちゃん」と・・・
叶わぬ夢です・・・

第六章
お彼岸になると、子供たちを連れて母のお墓参りに行きます。
子供たちと行くときは賑やかでいいのですが・・・
一人で行くと・・・5年経ったと言うのに・・・
まだ、涙が出ます。
後、何年お墓の前で泣くのでしょう・・・
墓参りから帰り・・・近所の顔見知りの
おばさんが、畑を耕していた・・・
声をかけてきそうな雰囲気だったので、
気がつかない振りをした。すみません!心の中で謝った・・・
久しぶりに、母の年賀状をみた
そして・・・始めて気づいた・・・
何時もなら「本年もどうぞ、よろしくお願いします。」なのに
母の最期の年賀状の文章は・・・
「大変お世話になりありがとうございました」で終わっていた。
声を出して、また泣けた・・・5年後に初めて母の覚悟を知った。
おかあちゃんこちらこそ「ありがとう・・・」

第七章

母が私にの残してくれたこと・・・
母は私たちが小学生のころ、一年に一回1000円で
好きなだけお菓子を買いと言って、買わせてくれた・・・
弟も私も夢中になってお菓子を選んだ・・・
私も母になってから母と同じようにした・・・
一年に一回3000円で三人の子供に好きなお菓子を買わせた
子供たちは目を輝かせて、時々喧嘩をしながら3000円分の
お菓子を計算しながら買った・・・

子供達が小さい頃から私は箸の持ち方に厳しかった・・・
母と同じように・・・
今では皆、箸をちゃんと持つことが出来る、

母に一度聞いたことがある・・・
「お父ちゃんと結婚して良かった?」と・・・
「若い頃は串柿食べた・・・」と一言で言った・・・
今では私も母の言葉の苦労が分かる。
苦労したからこそ、母は人に優しかった・・・
お葬式の日はそんな母を偲んで大勢の母の友人が
来てくれた・・・

第8章

「世間体が悪い事、人に迷惑をかけるような事はしたらあかん」
母の口癖だった・・・私はこの言葉が大嫌いだった・・・
母は生真面目な人だった・・・そんな母が嫌いで、よく母に反抗した・・・
田舎が、大嫌いで・・・都会の看護学校に入った・・・
卒業しても、都会で働いた。お盆お正月には帰ったが・・・
世間体が悪いと、帰ったら直ぐに、母の気に入った服を買って
着替えさせられたこともあった・・・
結婚をするために一度、田舎に帰り田舎の一番大きな病院に勤めた事もあった・・・
その時は母の自慢だった・・・しかし
父と大喧嘩をして家出をした・・・
両親を天国から地獄に突き落とした・・・
結局、田舎に帰ったのは、結婚相手が田舎の人で長男だったから・・・
それに「大好きな人だから・・・」
結婚して、子供ができて・・・母の「無償の愛」が理解出来る様になった・・・
(母の場合少し勝手すぎるが・・・)
こんな我が儘な私を見放すこともなく無償に愛してくれた・・・
最終的に私は母の愛から逃げる事は出来なかった・・・
でも・・・それで良かった・・・
母を最後まで看取ることが出来たから・・・